みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2013年11月25日
神農祭
 11月に神農さんの祭礼があると、大阪人はいよいよ師走が近づいてきたことを実感します。そんなナニワの神農さんで親しまれている大阪の薬のまち道修町にある少彦名神社では、毎年11月22日・23日に神農祭が行われます。今年は天候に恵まれて、暖かく小春日和の日におこなわれました。薬に関わりのある諸業界の人たちをはじめとして、多くの参拝者で賑わいました。神虎を飾った笹を持った人たちが沿道に並ぶ沢山の露店に寄り、一層の祭気分を味わっていました。大阪の年中行事の一つとして毎年約5万人もの参拝者で賑わいます。
 宮司ご一家と親交のある知人が招待を受けた際に当学芸員が同行して、拝殿に昇殿し巫女の神楽舞を目の前で拝見、神前で拝礼をしてきました。
 昔からナニワの1年の祭は正月のえびす祭ではじまり、当社の神農祭で終わるため、「とめの祭」ともいわれ、広く世間の人々の健康を祈願されるとともに薬業界繁盛の守護神として崇敬されています。
 安永9年(1780)に京都五條天神宮から日本の薬祖神である少彦名命の分霊を勧請し、以前から祀っていた、中国古代の医薬を司る神農氏とともに合わせて祀ったのがはじまりとされています。シンボルの張り子の虎は、文政5年(1822)に大坂でコレラが流行したとき、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬をつくり、神前で祈祷をして施薬しました。この時に病除祈願のお守りとして、合わせて施与したのが「張り子の虎」です。その効能が顕著であったため、以来「張り子の虎」が当社のお守りとして世に知られるようになりました(画像は拝殿から眺めた参拝の様子です)。
Written by 岩湧太郎
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Update: 2013年11月25日
ぐるっとまちじゅう博物館2013 「河合寺」の当番1日目
21日、「ぐるっとまちじゅう博物館2013」が始まりました。9時30分に到着したら、市役所の大江さんが準備されていました。明忍寺の奥様も早くから公開に対して準備されていました。
市から、この日の展示内容の説明がありました。「現在は無住のお寺で、明忍寺さんが管理されています。セキュリティの関係で、今回は仏像の拝観はできません。客殿と庭園をみてほしい」とのことでした。
客殿から続いている庫裏は、今回は立ち入りが禁止されています。昭和25年に改修された客殿は、当時尼さんがお住まいだったため、朱塗りの襖が設えてあり、しっくりした造りです。天井は格子を組んでおり(格天井(ごうてんじょう))、控えの間は普通の天井でしたが、年輪をうまく利用されていて、見栄えのする造りです。
最初の客さんは、関東地方から来られた男性で、事前に勉強されていて、資料を見ながら質問されました。仏像の多くが美術館などに預けられていることを残念に思われて、観心寺から延命寺へ向かわれました。
その後は、藤井寺のご夫婦など、市外の方が多く参加されていました。4年ぶりの公開で、待たれてた人が多かったようです。
天井と通路のシャンデリアは珍しいものでした。床の間には弘法大師の御影が掛けられていました。
市役所の島津・小池さんが「にぎわいウォーク」の皆さんを案内して来られて、室内を案内されているのを聞かせてもらいました。
金剛寺の御影を模写したもので、三鈷杵の持ち方が捻っているようだと質問が出ましたが、これが普通だと話されていました。
他にはお釈迦様の涅槃図が置かれていて、賑わいを見せていました。
西川さんと斎藤さんが本日は参加されていて、阪南大学国際観光学部のユーさんも参加されていました。彼女はタイからの留学生で、2年間日本語を学んで、阪南大学の4回生だそうで、日本語はよく分かり、熱心に務められていました。
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月22日
2013年酒林の展示
20日、観光案内所の勤務からの帰りの道すがら、西條酒造のお店の前の高野街道沿いで、先日来作られていた40数個の酒林の展示が始まっていました。25日まで展示されるそうです。
この日は、天候が急変する一日でした。帰りの道で長野神社の河内長野市保護樹木第3号のイチョウの木が、夕日に輝いていました。
展示されている酒林は、14日にトモロスさんが作られて、翌日には町内の方が参加されて、製作を行われました。
西條酒造さんの前の高野街道は「いにしえのみち復活プロジェクト」で、電柱が地下に埋められて、「石畳と淡い街灯まちづくり事業」で、道路沿いに埋められたライトに照らされた明りで、この日の夜から照らされるそうです。
25日の10時から酒槽式が行われます。長野神社の神主さんにより式が行われ、今年の新酒が酒林にかけられて、式が終わります。
その後、製作した蔵前通りの各家庭の入口に飾られます。
夕方の写真は西條さんのフェイスブックで見つけたので使わせてもらいます。幻想的な風景でしょう。
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月21日
天誅組150周年記念「維新の魁」
16日、加賀田公民館で、芝田河内長野市長の講座が行われました。
最近の失われた20年で日本が停滞しており、行き詰った日本を変えるにはどうすればいいか。その答えは、今までのやり方を変えることです。具体的にどうするのか。信州大学の真鍋教授の話を紹介されました。『過去の成功体験に頼らないで組織を改革するには、「若者、バカ者、よそ者」の力が必要だ』
「河内長野市では3つの大きな変革に関わっています。その1つは、大化の改新です。2つ目は鎌倉幕府滅亡です。第3は、幕末思想の変化です。
大化の改新では、当地の高向玄理という国学者が天皇中心の行政ピラミッドづくりを行いました。
鎌倉幕府の崩壊では、楠木正成が登場します。
江戸幕府の崩壊の魁となったのが、天誅組の登場です。」
市長は天誅組の研究者で、思いをすべて話されました。
「天誅組が「維新の魁」となって、今年でちょうど150年を迎えます。8月15日に挙兵し、奈良へ山越えしていくことに矛盾を感じます。
自分たちの精神的な支柱として楠公の首塚への参拝が、後醍醐天王の命を受けて、鎌倉幕府を倒した歴史に学んだのだと思います。
楠木正成は観心寺の中院で、8歳~15歳まで学問を積みました。天皇崇拝だけではなく、地域を愛した人だと思います。観心寺には「四恩の教え」が残されています。国王・父母・衆性・三宝です。
楠木正成は負け戦に臨んで、湊川で亡くなっています。彼の生き方が四恩だと思います。
当地には、高向玄理の時代より、営々と積み重ねられた歴史があると思います。
「近くて深い奥河内」というフレーズを守ってくださる方々や、ボランティアの皆さんがおられて、育てて頂いています。
18~50歳までの大切なときを中国で学び、帰ってから地域や国の制度を、聖徳太子の夢を実現させたことを、河内長野の子どもたちが、文化や自然を通して、存分に学んでほしいと思います。」
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月20日
感動的な高山右近の生涯展
 高山右近展は、高槻市立しろあと歴史館で行われている企画展です(12月1日までです)。たいへん史料が少ない時代ですが、多くの展示物を収集し展示された皆さんの熱意が伝わってくる展示でした。
 特に今まで歴史の教科書でしか見なかった肖像画や文化財なども実物展示されていたようで、少し残念でした。
 お客様は金沢など右近にゆかりのある地域など、遠方から多数お越しになっているようです。
 隣接する野見神社では七五三詣でもにぎわっています。
 今高槻でアツイスポットでしょう。
 高山右近の生涯のポスターですが、高槻市役所の各階にも普通に掲示されていて、全市あげてPRしている様子が見られました。高槻市は全員が営業マンである。その実践かもしれません。
 しろあと歴史館は阪急電鉄高槻市駅が最寄駅ですが、元城下町という性質から遠見遮断が多く、鉄道と道路が平行していないことから、スンナリしろあと歴史館へ到着するには、もう少し案内版が要りそうです。
 期間あとわずかです、お見逃しなく。大人200円でした。
Written by 暇仁
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Update: 2013年11月20日
皇帝ダリアと復興ダリア
18日、庭に出てみたら、皇帝ダリアが咲いていました。先日のブログで、復興ダリアを紹介したばかりなので、対比したいと写してみました。
皇帝ダリアは、数年前に三輪さんから苗を分けてもらい育てたのですが、うまく花が咲いてくれませんでした。木だけが太くなって、花は咲きませんでした。放っておいたのに、今年は幹がさらに太く、背が高くなりました。そこに花が咲いてくれました。大きさ違いを見てください。
皇帝ダリアの花言葉は、乙女の純潔、乙女の真心、優雅、華麗です。この花言葉で連想するように、淡いピンクの優しい花です。
復興ダリアは、一昨年、大槌町へ送るテラコッタドールを作成したときに、花の文化園さんから頂いた種をまいたら、昨年花を咲かしてくれました。種を取って近所の人に分けて、植えてもらったのですが、今年の夏は暑かったので、皆さんからは苗が枯れたとの報告で、今年は駄目だと思っていました。
昨年植えて、そのままにしていたものが、芽を出して、花を咲かせてくれました。近所の方からも咲いたとの報告がありました。
復興ダリアは、皇帝ダリアと普通のダリアの中間の大きさの花です。
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月19日
世界から愛される日本の食、その現状と課題(その1)
桃山学院大学の大島教授による「世界から愛される日本の食、その現状と課題」の連携講座が始まり、話題になっている日本とアジアの食品の話しでした。最近の動きでは、1.農産物の輸出、2.和食を世界遺産に、3.TPP参加問題、4.減反廃止があって皆さんがどのように対応されるのか、情報提供したいと話されました。
「2008年、食の安全の問題が起きて、中国へ研究に行き、2008~2011年まで青島農業大学の教授を務めました。当時、中国では1.残留農薬問題、2.毒餃子問題、3.メラミン事件が起きました。
日本では農産物の輸出から外食産業の海外進出が起きています。日本食が、安全・安心と言うことで急激に増加しています。
日本人の食事は、コメ・大豆・野菜・魚でした。戦後肉・油を食べ始め、バランスの取れた食生活となり、長寿をもたらしました。
中国では日本食、緑茶・日本酒・醤油などが売れています。日本では減っているものです。そこに、ニーズがあると考えられます。
日本での農業は、食糧自給率が世界で一番低い(2010年で40%)のが現状です。台湾32%、韓国45%で、最近は30%となり、日本と同じような現状です。その原因は出生率が低く、高齢化が進んでいることです。
その原因としては、1.儲からない・生産額が低い、2.農家の所得が少ないことです。
1960年の農業基本法が制定されたときには、609万haあった農地が、現在は450万haに減っています。そのうち、60万~70万haは休耕地となっています。国内農業の衰退は、食品の輸入依存率を高めています。特に小麦・大豆・とうもろこしはすべて輸入品に依存して、段々種類も増えています。その結果、食品輸入のリスクが出ています。
1.国際的な食糧供給価格の高騰を招く、2.食品の安全性の問題、また食品の輸入によって環境編も影響が出ているので、次回に詳細を話します。」
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月19日
ぐるっとまちじゅう博物館2013年「河合寺」の清掃
11月21~24日まで行われる「ぐるっとまちじゅう博物館2013」で、今年は川上地区が会場となり、河合寺が初めて登場します。河合寺は、河内長野市の三大名刹として、観心寺・金剛寺とともに歴史を持っているお寺です。
平成19年から狭山池博物館でボランティアをしているときに、博物館の事務員をされていた方が退職後、お父さんから引き継いだ河合寺のご住職となられたので、お寺の開放をお願いしていたところ、快く検討していただき、ガイド倶楽部のイベントで協力を頂いていましたが、平成22年3月になくなられて、交流が途絶えてしまいました。
その後、明忍寺のご住職が、面倒を見られていると聞いて、今回の公開が実現しました。現在は風通し以外では、お寺を閉められていて、公開に向けて清掃の要請が文化財ボランティアにあり、参加しました。
10名が参加して、庭の手入れと座敷の清掃を行いました。明忍寺のご住職ご夫妻が来られていて、話を聞くことができました。
先々代が昭和16年に金堂をはじめ、境内の整備を行われましたが、地元の方と色々意見の違いがあり、その後お寺を閉められたそうで、現在まで一部を除き、公開されていませんでした。
今回は、一部だけの公開で、整備が進めば、将来開いて頂けるでしょう。
イチョウの木やアジサイの花、紅葉が皆さんをお迎えします。
今回は、客殿と庭園が公開されますが、人員不足で、整備ができていないので、仏像の公開は行われません。洛中洛外屏風六曲二双が今回は展示されています。
河内長野でも、一番古いお寺と言われていて、木造十一面千手観音・大日如来・毘沙門天・不動明王・役の行者などを所有されていますが、現在は市立美術館などに保管されているようです。
清掃の後に、金堂と今回は公開されない上部の堂宇を見せてもらいました。
天皇からの書簡も残されていますが、今回は市役所で保管されているようです。
Written by マロンさん
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Update: 2013年11月18日
寝屋川市仁和寺の国役堤
 国役堤を説明するまえに、まず国役を説明しましょう。
国役とは国ごとの石高を基準として、所領の別なく、平均的に課せられる役のことです。そのようにして挑発された人足によって大河川の堤防普請を行うのが国役普請です。
 その国役普請の対象となる堤防が国役堤です。
 淀川堤も国役堤でした。写真の堤防は寝屋川市仁和寺の堤防です。かつて上庄 仁和寺とも呼ばれていた場所です。
 堤には榎の林が形成されていたので、東海道の一里塚があった場所と考えられます。
 その仁和寺堤防は延宝2(1674)年と享和2(1802)年に水害で堤防が切れてしまいます。
 写真の堤がちょうど享和2年に切れた場所付近になります。
 切れたまま放置されているのが不自然だったので少し勉強しました。
 すると神戸大学附属図書館の河内国茨田郡点野(しめの)村文書がありまして、その解題というのがありまして、それを読んでいくと、享和3年までは国役といえども、とりあえずの補修であったことが記されています。そのために切れた状態で残っているかもしれません。
 これはもしかすると文禄堤の遺構そのものではなかろうかと思われます。貴重な近世土木遺産であります。
Written by 暇仁
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Update: 2013年11月18日
杉玉で町並み景観を
 今秋に収穫した新米で仕込んだ新酒のできあがりの便りがあちらこちらで聴かれるころとなり、吾が河内長野でも新酒が出来上がったことを、酒蔵の軒先に飾って告げる杉玉づくりが行われました。
 南海高野線「河内長野駅」近くに、「天野酒」で知られる西條酒造という蔵元があります。ここの酒蔵が旧高野街道沿いに並んで建っています。この蔵前の一角で町おこしに取り組むボランティアによる杉玉づくりが14日・15日に行われました。作られる杉玉は直径40~50cmほどの大きさのものを43個作るそうです。この杉玉を周辺の民家の家々に飾って町並みの美観を醸し出し、かつての蔵前通りの賑わいを取り戻そうとするもので、ボランティア団体と西條酒造さんとのコラボレーションで数年前から行われています。
 杉玉の原材料である杉の小枝は、3ヶ月前から調達の計画を立てられます。山で間伐した杉から枝を切り、林道まで運び出し、一定の長さに切り揃えて作業現場まで運び込む。この杉の小枝の調達は多くの団体の協力で進められます。1つの杉玉を作にはおよそ、大きな杉の木1本から切りだした枝が必要だそうです。これを間伐材の杉から作ります。
 杉玉を作るには、芯となる、直径18~20cmぐらいの球状の骨組みを太い針金で作ります。これに長さが25cmぐらいの杉の小枝を差し込んでボール状に作っていく。隙間なくぎっしりと差し込みます。仕上げは剪定鋏で球状に形を整えて完成します。丁度サッカーボールよりも1周り大きな杉の葉のボールと考えればよい。重さはかなり重く5Kg 以上なります。21日~25日の期間、43個の杉玉を酒蔵前の通りで展示するそうです。
Written by 岩湧太郎