みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2013年10月30日
蜆川の堤防
 国道1号線から曽根崎新地へは坂道があります。NHKのブラなんとかではないですが、少し気になりました。
 少し大江橋方面へ歩くと御堂筋沿いに蜆橋跡の碑がありました。これは新撰組と大坂相撲の力士が喧嘩した場所として有名な場所です。
 実は蜆川という川がありまして、その南側を元禄年間に堂島新地として、北側を宝永年間に曾根崎新地として開発されました。
 この坂、実は蜆川の堤防跡だったのです。
 明治時代まで蜆川が流れていたそうで、現在でも注意深く歩いていけばわかりますが、明治時代当時の写真でも曽根崎新地の方が堂島新地より堤防が高くなっています。
 さて江戸時代の蔵屋敷は、堤防の低い堂島新地側に分布していました。これは京阪電鉄中之島線大江橋駅のコンコースの天保年間の各藩の蔵屋敷の分布図で確認できます。
 堤防が低い方が洪水リスクの高いと思うのですが、蜆川の南側、つまり堤防の低い側に集中しています。
 洪水リスクや津波リスクの高いところに蔵屋敷が集中しているのがなぜなのでしょう。
 まず利便性おそらく船の発着でしょうか。次に火災のリスクも高かったのかもしれません。
Written by 暇仁
学芸員の投稿
Update: 2013年10月30日
うたごえひびけ なにわっこ
 これは大阪市立幼稚園音楽会のことで、今年は10月29日と30日に大阪市立中央公会堂で行われている行事です。 例年行われている行事とのこと。
 中央公会堂で歌った5歳児の皆さん約2250名(今年度)がもう一回、各幼稚園ごとに大阪市役所前で歌うそうです。たいへんすばらしいことだと思います。
 街行く人に活力を与える和顔愛語の歌声。
 元気いっぱい明るく楽しい歌声。
 行きかう人たちみんなが元気をもらえたようです。
 ありがとうございました。また来年も楽しみにしていますね。
Written by 暇仁
学芸員の投稿
Update: 2013年10月30日
白銀に輝く岩湧山山頂のススキ
 大阪府と和歌山県の府県境にある和泉葛城山系の岩湧山は標高897.7mあり、南葛城山に次いで2番目に高い山です。この山頂一帯はいま白銀色に輝き、ススキが見頃を迎えています。見渡す限りススキ・すすき一色です。その様子は麓からも遠望することができます。11月上旬頃まで楽しめるでしょう。この山は登りやすく、日本新百名山の1つに数えられています。毎日、多くのハイカーが訪れて楽しんでいるようです。
 登山ルートは、南海電鉄・高野線の紀見峠駅あるいは天見駅からのルート、同線の河内長野駅・乗り換え・バスで滝畑ダムからのルート、同線の三日市町駅から岩湧寺のルートがあります。
 この茅場をキトラと呼ばれ面積が8haほどあります。ここのススキは良質なために刈り取って、重要文化財などの屋根葺き材として活用されています。そのためにも早春に山焼きをして育成しています。岩湧山のいろいろな情報は四季彩館から得ることができます。画像は10月29日撮影したものです。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 2013年10月30日
2013年「高野街道まつり」速報
10月27日、河内長野駅前から三日市駅前までの間で、第7回「高野街道まつり」が行われました。台風接近で、前日まで雨が多かったですが、当日は朝から快晴で、午後からは雲も出たりして、過ごしやすい1日でした。
ガイド倶楽部のスタンプラリーでは、7か所の捺印とポイントでの解説を行いました。高野街道班がスタンプラリーの担当で、各拠点に3~4名が配置されたので、交代で高野街道の様子を見学できました。
私の担当は、三日市役場跡でした。昨年担当した八木家の前では、お茶のお点前が、紅い毛氈が敷かれた上で優雅に行われていました。
三日市駅前の宿場市のブースには、泉佐野市から来られた陶芸家の佐ノ川谷藍子さんが、5年ほど前から毎年参加されています。七夕様の織姫に逢いに行くようなワクワクした心で、会いに出かけ、再会できました。その後、Facebook友達の和籐亜子さんが、岩手県釜石市を応援されていて、地元の物産展を手伝われていました。「希望の朝」と言うヨーグルトを紹介されていたので、ブースを覗いてみたら、4本残っていたので、購入して飲んでみたら、さわやかで美味しかったです。完売したそうです。このような応援もすばらしいことです。
くろまろ塾で知り合った高野街道沿いの阪野さんが、自宅前に三日市で孵化したくろメダカを展示されていました。くろメダカは野生のメダカです。日本に昔からいるメダカで、日本で一番小さな淡水魚です。北海道を除く日本各地の水田や小川・池などに住んでいます。現在、このメダカは絶滅危惧種に指定されているそうです。いただいたものを阪野さんが三日市で孵化して、大きくしたそうです。5つの水槽が並べてあり、多くの人が覗き込んでいました。
周りには、長井さんの奥さんが丹精して育てられた野草の小鉢がたくさん並べてありました。
毎年、市民の参加が増えてきて、盛り上がってきているように思います。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2013年10月29日
第7回 高野街道まつり
 京都、大坂、堺から高野詣する東・西・上・中の4つの高野街道が南海高野線・河内長野駅前で合流して1本となり、三日市宿を通り紀見峠を越えて高野山へと続きます。この河内長野駅前から三日市町駅前までの、いにしえの道沿いで、以前の賑わいを取り戻すイベント・高野街道まつりの第7回目が10月27日に開催されました。
 この区間の “高野街道”沿いの8箇所のゾーンを中心にいろいろなイベントやおもてなしが行われました。河内長野駅前ゾーンでは、特設ステージが設けられ、和太鼓・吹奏楽や雅楽の演奏、着物ファッションショー、日野獅子舞、よさこいや阿波踊りなどが行われました。長野神社ゾーンではこどもフリーマーケット、天野酒酒造ゾーンではフード&クラフトの奥河内コレクション、大日寺ゾーンではキッズコーナーとお茶の接待、烏帽子形八幡神社ゾーンの休憩所ではボランティアによる茶菓子の無料ふるまいがされました。三日市幼稚園エリアでは園児のお茶のおもてなしや園児が育てた「だいこん」などの販売、八木邸ゾーンではハーブ喫茶・野点・そば打ちなどがありました。三日市町駅前ゾーンでは、特設ステージが設けられ、日野獅子舞、ポップスバンド、弾き語り、アコースティックライブ、ソロギター等の演奏がされました。またこのゾーンでは、高野街道筋の名産品が結集した宿場市も同時開催されました。この高野街道沿いを「ちんどん通信社」のちんどん屋が11時から13時20分まで笛・太鼓・鉦入りで練り歩きました。この他にも、増福寺、真教寺、月輪寺の3ヶ寺のご開帳や旧三日市交番(大阪府下で最古の木造交番)の公開、ボランティアのメダカと秋の山野草展など、もり沢山の行事がありました。さらに参加型イベントとしてスタンプラリーがあり、完歩賞として先着4000人に、ガラポン抽選で豪華賞品のゲット(外れなし)がありました。天気も良く多くの人々で終日賑わいました。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 2013年10月29日
タスマニアの現状(その4)
25日、難波のまちライブラリー@大阪府立大学で、西根考平(タスマニア・デビル)さんの第4回タスマニア講座が行われて、参加しました。
西根さんの風貌が髭と鋭い顔立ち、カウボーイハットの井出立ちで、なぜですかとの質問に、現地でアボリジニーにどうかしたいので似せているとの話でした。
「『タスマニアを科学すると地球の未来が変わる』第4回目で、卵で生まれてくる原始的哺乳類・カモノハシの生態に関するビデオを見た後、生命の神秘や彼らの持つ感覚の特殊性を感じつつ、毛皮を獲るための乱獲から生き残った奇跡について、皆さんで話をしたいと重います」と話されました。
カモノハシはオーストラリア東海岸に限られ生息しています。本日はプロが写したビデを持参したとのことでした。
映像はPlatypus プラティパス(和名:カモノハシ)のことでした。外国人が撮影した「World strangest Animal」という映像を見て、絶滅危惧種のカモノハシの話が進められました。
詳しい生態が分かり、面白く拝見し、英文の解説も掻い摘んで話してもらえました。
「骨格は哺乳類でありますが、卵から孵化します。子どもは母親の乳腺付近の乳をなめて育ちます。穴の中で育てるために、長い穴を掘って、蛇対策で仕切り壁を設けています。タスマニアを含めて、川に近い柔らかな土地に巣があります。発見当時、イギリスに持ち帰ったとき、作り物の動物だと言われました。
カモノハシの活動は夜中です。そのために今では、写真を撮ることもできません。ボランティアが自然保護として対応しています。現代では、発信装置を付けて、行動を研究しています。
環境の変化で個体数が激減しています」など、考えられない不思議さでした。
「タスマニアには、天敵が少ないので生き残っています。天敵は人間と野犬(ディンゴ)と車です。」
あっという間に9時の終了となりました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2013年10月28日
大阪名物の橋
東京八百八町、京都八百八寺、なにわ八百八橋という言葉を聞いた事があるかと思います。

大阪には橋が昔から多く、個性的な橋が現在でも結構あるのですが、その中の一つ大阪市旭区と東淀川区を淀川を跨いで結ぶ「赤川鉄橋」の歩道が10月31日に閉鎖されます。

何と言ってもここはJRの貨物線と共同の橋で、橋の半分が線路で半分が歩道となっていて、貨物列車と一緒に橋を渡る全国唯一の珍しい橋だったのです。

昭和4年の鉄橋完成時から「仮歩道」の名目で大阪市の計らいにより渡ることが出来ていたのですが、歩道部分も線路にして旅客線へ転用する工事に今後入るので、84年経った今、ようやく「仮歩道」の使命を終えることになります。

26日土曜日には旭区主催のお別れイベントが行われ、写真やメッセージの展示が行われました。
歩道の廃止は惜しいのですが、またユニークな橋がどこかで生まれるんじゃないかなと期待します。線路工事が終わると新大阪から放出まで新しい旅客線ルートが出来るので、利便性が上がることになります。
場所は、阪急京都線淡路駅から徒歩15分程度のところにあります。
Written by はんたろう
学芸員の投稿
Update: 2013年10月28日
秋のウォーク「槇尾山施福寺」往復コース研修
22日、滝畑の秋のウォークの研修に8名が参加しました。
今回、10月5日~広報紙で募集を行って、25名の募集に対して、10月31日分は28名、12月8日分は30名の応募があり、締切ました。滝畑拠点としては、多くの方に応募していただきたく、11月20日に追加実施することになりました。そのため、3班体制でガイドの研修を検討しました。
コースに従って時間確認を行い、一部ガイドでの声出し研修も併せて行いました。正午には槇尾山施福寺に到着して、食事タイムとしました。
お二人のご夫人が、黄色いガイド倶楽部の制服を見て、尋ねてこられました。三木さんと以前、ハイキングで一緒になられて、PRを受けられていたそうです。
その後、和泉市の中居さんが来られて、当日の山頂でのガイドをしていただけることになり、時間分配を検討しました。施福寺をわが命として、皆さんに喜んでいただきたいと、毎日通われている人です。歴史をはじめ、植物にも造詣が深く、楽しい話が聞けました。
施福寺の津守住職からもお寺の歴史について聞けるようになりました。
食事後、松本さんが勉強中の笹笛で、浜千鳥、竹田の子守唄、旅愁、惜別の歌の4曲を吹いていただき、参加したみんなで合唱しました。
中居さんからは、現在咲いている珍しい花を紹介してもらいました。施福寺には50種類の花が咲いているそうです。今回は、「ミヤマレンゲ」「高野ボウキの花」「スズランの赤い実」を見て、教えてもらい、取ってこられた「ムベ」の実を見せていただき、アケビとの違いを教えてもらいました。
午後2時半になったので、帰路の道を取りました。途中、三輪さんからはポリ袋と手袋を準備していただき、帰路の道のごみの収集を提案されました。
ダムサイトに到着したときには、ごみの袋8袋が満杯となりました。
女性の皆さんは特技を持たれて、今回のイベントを盛り上げようと努力をされていました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2013年10月25日
今年も復興ダリアが咲きました。
昨年「テラコッタドール」を花の文化園で制作し、岩手県の大槌町に届けられました。そのときに花の文化園さんから新種の「復興ダリア」の種をもらいました。皇帝ダリアと普通のダリアを掛け合わせて作られ、岩手県の大槌町へ届けられた「復興ダリア」と命名されたものです。ダリアの高さが1mぐらいの大きさです。当時はテラコッタドールや他の救援物資とともに、大槌町にも送られてました。
昨年5月に早速植えて、10月に花を咲かせました。
その花の種を集めて、今年5月中旬に皆さんに配りましたが、芽が出て少し大きくなったところで、夏の暑さで、出た芽が枯れてしまったという話ばかり聞きました。
種をまいたものが、暑さで弱っていましたが、雨で少し元気を取り戻しています。
諦めていたら、一昨年植えてそのままにしていた球根から出ていた芽が、最近の雨で勢いを盛り返して、元気を取り戻しました。その一枝に花が咲いているのを発見しました。これが本当に復興ダリアです。花の大きさは中くらいで約15cmぐらいの大きさです。
昨年は大槌町でも華を咲かせたと聞きました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2013年10月25日
海を渡ってきた人々と土器
くろまろ館企画展示で「河内長野の古墳時代」が行われています。
「本日は図書館勤務の尾谷さんに、企画展の関連で「海を渡ってきた人々と土器」について講演してもらいます。尾谷さんは、発掘や調査・韓式土器の研究会を立ち上げられており、詳しいお話が聞けると思います」と司会者の話がありました。
「朝鮮半島から渡来時期は、近世を除けば、第1波:縄文時代晩期~弥生時代前期、第2波:5世紀の古墳時代中期、第3波:古墳時代の後期で5世紀後半~6世紀、第4波:7世紀の飛鳥時代です」と尾谷さんの話が始まりました。
十数年前に朝鮮半島で発掘調査を見学され、韓式土器の系譜を研究し、その報告がありました。
「5世紀の朝鮮半島の勢力範囲は、3つの国(新羅・百済・高句麗)と連合国家(伽耶(かや)など)で成り立って、三国が争いを縄文時代の晩期から7世紀にかけて続け、それを日本でも権力者は知っており、渡来人を受け入れてきました。
彼らは稲の文化と時を持参してきて、日本文化に花咲かせました』
当時の日本は、東南アジアの一員で、民俗的な争いや国家間の対立をよく理解していたように思われます。
朝鮮半島から伝わった甕(かめ)と炊飯具は、こしき・胴の長い甕・かまどがセットになっています。かまどは作りつけと移動式のものがあります。
コメを蒸す技術が入りました。影響を与えた炊飯具というのは、従来は「蒸す」ということがなかったと考えられます。一部では竹を使って編んだもので、蒸すことが可能でした。
日本人の生活にまで朝鮮半島のルーツが隠されていました。これらが日本へ入ってきて、6世紀になって、日本化していきました。
結びとして、「5世紀から6世紀にかけての土器を韓式土器と言います。技術の流れの中で、渡来人が生活用具として持ち込んだものが、日本化したと考えられます。どの国の例を見ても、同じような過程が見られます」と話されました。
Written by マロンさん