みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2014年06月05日
奥河内あおぞらカフェ
6月1日河内長野市役所で行われた、「奥河内カフェ」に、ガイド倶楽部の総務部長の渡邊さんと参加しました。9時過ぎに市役所に到着したのですが、既に多くの市民の方が参加されて、お望みのパン屋さんの前には、長蛇の列でした。今回は①たいちろうのぱん、②Rapin Blanc、③アーリーバード、④フレッシュベーカリーコットン、⑤ベィクハウスキギの、5つのパン屋さんが軒を並べて、販売を開始されていました。コーヒーショップは、①岡崎珈琲、②ワコー長野店の二店が店開きでした。コーヒーショップでは、入れたてのコーヒーの提供で、長い列となっていて、ジュース類の販売も行っていて、お客さんから列を別にして、早く処理をする様に、意見が出されていました。他には、河内長野観光協会のブースでは、橘さんを始め係りの人が、広報活動と大阪産品の産物の販売が行われていました。今回の特別参加の「山からのおくりもの屋」さんでは、木工製品の販売が行われていました。市内の特産品のコーナーの井上すだれさんは、市役所のロビーで、実演を行われる準備が行われていました。
朝どりの野菜の販売は毎年好調で、今年も垣内農園さんがブースを確保されていました。観光協会のブースで活動中の、橘さんのお話では、パン屋さんの販売は、午前中には終了する様な、好調さだと話されていました。開催の時間は2時までだそうです。我々も菓子パンを購入して、マンゴージュースを購入して、木陰で楽しみました。市役所のロビーも開放されていて、日陰の中で皆さん想いのまま、休息されていました。市役所の関係者の方も沢山、日曜にも関わらず参加されていました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2014年06月05日
大阪精神の系譜(第五期船場の群像)「大阪商人ここにあり」
5月29日、本町のカネセビルで、大阪自由大学の講座、大阪精神の系譜「大阪商人ここにあり」があり、講師は元日本経済新聞社編集委員の、脇本祐一さんでした。『戦前の船場の話をします。メガロポリスと言うのは、まちが巨大では無く、全国から技術者が集まる事です。そこには秀吉が関わり、大阪の街がメガロポリスと称されるものとなりました。その場所のポテンシャルを発見したのが16世紀の初めの蓮如です。16世紀の後半に、信長が見つけて、そこで石山合戦となりました。大阪の城下町に、中央市場となる、船場を造っていったのです。秀吉が造った大きなシステムを、徳川政権が引き継いでいました。そこで天下の台所と言う、中央市場が繋がっています。明治以降も株仲間制度や、市場の民間市場が造られていきました。事実として大阪城が落城すると、日本では4度も経済が大きく変わっています。①石山合戦→信長・秀吉の天下統一(近世の始まり)②大阪の陣→270年間の太平の世に、③鳥羽伏見の戦い→明治維新(近代の始まり)、④大阪大空襲→戦後の日本(現代の始まり)です。その為に大阪では、創業と倒産の繰り返しで、新陳代謝がおきて、流れが船場商人の制度として続いていく原因でした。丁稚で入社して、商いを覚えて、企業家として成熟して、新陳代謝で、新しい人が入ってくると言う繰り返しでした。そこでは町人学者が続々と登場して、自然科学の発達と、天文・医学・暦学等がビジネスを通じて出来上がっていった。物事を両面から見る事がおきてきました。商売と言うのは、自己責任でいうと言う事です。そこでは個と言うものが大切にされました。その中で個人の寄付で公共物が建設されていて、蓮如の一建立と言う遺伝子が、近世・近代に引き継がれています。』と結ばれました。
Written by マロンさん