みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2014年06月24日
田尻海洋交流センターと田尻歴史館について
6月20日恒例の田尻港漁業組合の「田尻海洋交流センター」で、海鮮バーベキューを実施しました。
今回は一人で家を早めに出て、田尻歴史館(谷口房蔵氏の別邸で、ステンドグラスが美しいレトロな洋館です)へ向かいました。
西條酒造さんが文化財の活用で、悩まれていたので、府立の文化財が活用されているのを、見せて貰いました。アスウェルと言う会社が、文化財の活用と保護のメンテナンスを行われていて、文化財の本館には、食堂と物品の販売所と、文化財のガイドが行われていました。今回はステンドクラスを見て帰りました。
交流センターでは少し早目に着き、炭が赤々と、燃え出した準備状況の確認をして、海風を受けて海を眺めながら、皆さんの到着を待ちました。
今回は「友達の輪」の23名が参加されました。南海本線吉見ノ里駅前で集合して、歩いて12分位の距離です。道の途中には、大阪府指定有形文化財の、田尻歴史館があります。皆さん方は今回見学せず、会場へ向かいました。本日の宴会は貸し切り状態で、一番見晴らしの良い席を提供して貰いました。ランチコースは、平日限定で11:00~14:00の90分の予定です。メニューは、アナゴの天ぷら・有頭エビ・ホタテ貝(またはオク貝)・イカ・厚切りベーコン・フランクフルト・焼き野菜・ご飯 (タコ飯に150円追加で変更可能)・みそ汁などで、焼鳥などを追加しました。90分の食事タイムでは、久しぶりでいろんな話に花が咲き、自分の近況の健康について交流が出来ました。
その後、アウトレットまで歩いて散歩して、駅構内のホテルの喫茶店で、コーヒータイムを取り、解散しました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 2014年06月24日
「近世狭山池の西除と東除」池守田中家文書特別公開
6月14日~7月13日まで、府立狭山池博物館の展示室で、公開されています。挨拶では『池守田中家文書』は、江戸時代から大正末まで、狭山池の池守(管理責任者)を務めてきた田中家(大阪狭山市)に伝えられてきた資料です。狭山池の江戸時代以降の改修工事や水利慣行が知られる事から、とても高い学術的な評価を受けています。現在、「池守田中家文書」は狭山池博物館が寄託を受けて、お預かりしています。』と書かれていました。
渡邊主任専門員から、解説をして頂けるようになりました。『今回の展示の中心の「除(よげ)」と言う事は、一般に、水を溜めるため池やダムなどでは、洪水を放流して、その安全を確保する施設が必要です。放流施設が無いと洪水は堤からあふれ出して、堤が崩れる事が在ります。狭山池では江戸時代から、除・水除(みずよげ)と呼ばれる、安全弁的な施設です。江戸時代以前は余り手入れがされなかったが、江戸時代に入ると徳川幕府の管轄で、大阪城代が中心となり、国家的事業で、改修工事が行われて、特に豊臣家家臣で、幕府の摂河泉三国の国奉行の片桐且元が、慶長の改修を行いました。池水は村々の石高を基準とした、番水の制度で、公平に分配されました。時代と共に西除と東除の村では、洪水対策についての人足提供から、17世紀中頃には、東除川沿いの村々が番水から離脱しました。江戸時代以降、除は頻繁に改修され、本格的な改修は西除で11回、東除で7回行われました。特に安政5年の西除の改修では、銀190貫目(約2億円)の費用でした。幕府の財政が一段と悪化した18世紀に入ると、水下の村々が独自に金を借りて行われ、延宝期以後は、請け負う商人を決めるようになり、詳細な仕様書や絵図が作成され、工事関係の事務を務めた池守田中家には、工事関係の資料が残されて行きました。』と言う内容でした。
Written by マロンさん