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Update: 2013年12月09日
伊勢型紙技術保存会の皆さんの訪問
7日、伊勢からバスで14名の方が、くろまろ館の「技あり!紺屋型紙」展へ研修で訪ねて来られました。伊勢型紙技術保存会の皆さんとは、10月10日に狭山池博物館の皆さんが、12月14日から行われる平成25年度ボランティア企画「夜具」の展示会のため、三重県鈴鹿市の伊勢型紙の調査で、鈴鹿市伝統産業館を訪問したときに、寺尾家住宅を使った型紙資料館でお会いしました。
見学当時にお話した際に、12月7日に河内長野市ふるさと歴史学習館の展示会に行くと予定されており、交流ができることをくろまろ館のボランティアの西川さんと楽しみにお待ちしていました。
くろまろ館では、この日から開催されている「技あり!紺屋型紙」展を見学されました。この日は、特別に別室の会議室で、前日から準備に入り、型紙を101枚準備して、谷口館長・高田・松野さんがお待ちされていました。狭山池博物館からは、前回の訪問から色々交流された楠副館長とコーディネーターの石隈さんも参加され、交流が盛り上がっていました。
予定の1時間が大幅に遅れましたが、昼食を削ってでも話をしたいとの皆さんの研究熱心さに感激しました。参加の7名の女性陣は、皆さん彫師の勉強をされており、明治時代(慶応元年の記載)に造られた型紙を勉強の材料として、コピーして帰られました。皆さんのお話を聞いた中で、知らなかったことがたくさんありました。その1つが、「鯛の鯛(たいのたい)」です。型紙にも描かれていました。
『鯛の鯛は、硬骨魚類の骨の一部で、姿が鯛に似た部位のことである。タイのタイ、鯛中鯛(たいちゅうのたい)とも呼ばれる。マダイの「鯛の鯛」は、中央の縦の筋より左が肩甲骨、右が烏口骨である。肩甲骨の穴を鯛の目に見立てる。』ウィキペディアで調べてみました。
写真は、前回伊勢を訪問した白子での彫作業の様子です。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月09日
技あり「紺屋型紙」展
河内長野市ふるさと歴史学習館(通称くろまろ館)では、秋の特別展「技あり紺屋型紙」展が、12月7日~平成26年2月2日まで開催されています。花の文化園の北側400mのところです。
型紙とは、布などの文様染に使われる型で、美濃和紙を柿渋で張り合わせた上部な型地紙(渋紙)に、文様が彫り抜いてあります。型紙による文様染を型染と言います。おもな産地は、伊勢の白子・寺家(三重県鈴鹿市)が有名です。伊勢型紙は、江戸時代には紀州藩の特産品として、保護を受け、盛んに生産されました。そして、型紙商人によって各地に売られていました。
くろまろ館では、約1,500点の型紙を保有しています。これは、高向にあった紺屋(染物屋)1軒に残されていたもので、伊勢の型紙商の商印が押されているものが多く見られます。最古のものは、赤外線で調査して、慶応元年(1865年)の記録が残されているそうです。
この日は、伊勢型紙技術保存会の皆さん14名が、バスで到着されて、1時間の予定を大幅に延長されて、熱心に見学されていました。たくさんの作品の中で、古い方の作品を参考にしたいと、コピーされて持ち帰られました。新しい作品ができるのか、興味がわきました。
また、伊勢型紙技術保存会から見学されていた、阪哲雄さんとおっしゃる伊勢型紙型彫師による「くろまろ館歴史体験教室」が1月24日に行われます。「型彫りの技に触れる」という体験教室で、午後1時から4時まで行われます。また、12月13日~15日の14時~15時には、展示説明会が行われます。
年末には、型紙の総入れ替えが行われる予定です。
展示会では、一ヵ所、質問コーナーが設けられています。「売れ筋の文様は?」という質問で、右が「文様の段」、左が「菊と束熨斗(たばのし)」の2つの型紙で、売れ筋の質問をしています。皆さんは何方だと思いますか。写真で見つけて、現地で確認してください。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月09日
2013年12月観光案内所のディスプレイ
河内長野観光案内所のディスプレイが12月分のものに代わりました。
『秋も深まり、日増しに寒さが加わってまいりました。今月のテーマであります「紅葉」も、私たちの活動を後押ししてくれているようです。季節を通して、「河内長野のすばらしさ」をお客様と共有したいものです』とプランナーのカサブランカさんの今年最後のコメントです。
12月に入り気ぜわしい中で、観光案内所管理部の男性陣が、今年最後の展示に挑戦しました。
童謡は「きよしこの夜」で、もうジングルベルの音楽が聞こえるぐらいに、押し詰まってきました。一年が早く感じられる年齢になってしまいました。
今月のポイントは「寺が池公園イルミネーション」です。『点灯時間は、12月1日~25日の17時~21時です。12月7日には、花づくりボランティア「花の精」の皆さんが、17時30分~19時までハーブティのサービスを行います。12月18日は河内長野市のライトダウンキャンペーンで点灯されませんので、注意してください』と市役所からの連絡です。
ラブリーホール前でもイルミネーションが輝いているようです。
写真は奥河内の風景美として、昨年の寺が池公園イルミネーションの様子です。
今年の生け花は、花の文化園さんから提供していただきました。
田中画伯の水彩画は、奥河内の風景を2枚展示しています。
大野さんのお人形は、3人の子どもたちを飾っています。
花の文化園さんのコーナーは、『もみじは11月下旬が見ごろです』と紹介しています。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月06日
滝畑班の新横谷ハイキングコースの研修
3日、滝畑班で、新コースの研修として、横谷コースに行きました。滝畑班の渡邊拠点長から、滝尻の梶谷区長にお願いして、地区の弥勒堂を開放して頂き、お話を聞かせてもらうことができました。
10時過ぎに滝尻の阿弥陀堂の前に到着したら、すでにお堂を開けていただいていました。滝尻では古老の方が減っていて、私も詳しくは勉強していないが、分かる範囲でお話ししたいとのことでした。滝尻は、ガランドウという滝畑ダムの一番北側の地域ですが、昔は河内長野よりも和泉市やかつらぎ町とのつながりや婚姻関係が強かったそうです。
小学生の頃には、修学旅行やハイキングのときに、観光バスが和泉市の善正の方で待っていて、子どもたちは塩降トンネルを使い、トラックで送ってもらっていました。
沢登りが趣味で、付近の古道が復元できればと活動されているそうです。
弥勒堂は昭和6年に改修されています。この日は改築の時の企画など見せていただきました。ご本尊は自分も拝見していないとのことでした。
お堂の周りには、滝畑で特有の女性たちの祈りの記念碑である「不食供養碑」が、十六基残されていました。滝畑では、内墓と外墓という風習があり、滝畑の外墓は新しく、滝畑ダムの西側に移されたと話されていました。
その後、滝尻の小道を案内してもらい、権現滝まで古い道を使って連れて行ってもらいました。権現滝では、30mぐらい道路からロープを使って、沢を下り、雄大な流れを見せてもらいました。
また、旧知の北谷家を訪問して、78歳のおばあさんと面会しました。今でも、ミニバンを運転して買い物されているそうです。最近では、SEA TO SUMMITで、おでんを販売するなど、元気に活動されているとのことでした。
「滝畑の民話」に詳しく、ダムが造られた頃の発行で、参考になるとのことでした。
写真は、国田さんが撮影された竜が山に登るような紅葉の風景です。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月05日
天野山金剛寺の多宝塔の現地見学
30日、金剛寺の講堂で、秋の奥河内「重要文化財金剛寺多宝塔修理現場特別公開」が行われました。
多宝塔修理特別公開のパンフレットには『多宝塔は三間多宝塔で、こけら葺き(屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて施行する。板葺(いたぶき)の代名詞にも使われる。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。最も薄い板(杮板)を用いる。板厚は2~3mm。)の建物で、内部に本尊大日如来像を安置しています。この塔は、平安時代後期(11世紀後期)に建立され、その後、桃山時代の慶長期に、根本的な大修理が行われ、江戸時代の元禄期には、見直しなどの修理が行われています。慶長期の修理の時に、擬宝珠には施主として、秀頼の名前が書かれています。文化財指定後は、昭和14年に解体修理、屋根は昭和47年に葺き替えられています。
今回の解体修理は、金堂とともに、平成の大修理が実施されています』と書かれていました。現在は屋根が外され、枠組みとなっていて、二階部分が見学できました。
「多宝塔は1178年の創建で、慶長11(1606)年に大修理が、豊臣秀頼によって行われました。そこでは改修に近い修理が行われたと思います。その跡が現在も残されています。塔の内部正面には、黒い須弥壇があり、大日如来と五仏が安置されています。須弥壇の後に二天と、更に後ろに二天があり、八天は四方の扉に描かれています。塔の柱には仏画で二十二体が描かれています。そこでは如来・菩薩・天部などの曼荼羅の空間となっていました。金堂と同じものです。仏教の伝来以降の彩色がずっと続いていたと思います。
元禄時代になると、コバルトが使われていますが、ヨーロッパからの伝来で、使い始められたものだと思います。江戸時代には珍重されました。塔の中では見つかっていないので、内部は以前の彩色と思われます」と、京都市立芸術大学の宮本教授は話されました。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月05日
仏教彩色と金剛寺
30日、金剛寺の講堂で、秋の重要文化財金剛寺多宝塔修理現場特別公開講座が行われました。
京都市立芸術大学宮本教授の「仏教彩色と金剛寺」です。
「金堂・多宝塔も現在修理中で、写真を見てもらいながら説明します。現在と修理記録を比べてみます。はじめに、金堂の修理前の様子です。中央に丈六の大日如来坐像、両脇には不動明王、降三世明王の三尊形式です。種子曼荼羅が置かれて、蓮弁が描かれた天蓋も残されていてます。解体修理中の金堂ですが、天井にも彩色文様が見られます。回りの柱には、漆が塗られて、布を巻いたように絵の具が塗られていました。須弥壇にも蓮の花が描かれています。密教の雰囲気を感じさせます。下陣も豪華だったと思われます。
仏教彩色とは、鎌倉時代に採用された仏塔・寺院の建築彩色で、仏像・仏画・襖絵・書・仏具などに施す尊厳な意匠・画像のことです。古墳時代まで、彩色は非常にお粗末でした。建築は曾木で造られていましたが、そこに仏教が伝来して、石で出来た基壇を組み、建物が造られて、彩色されていきました。
技法・作風を比較することの面白さとその意味を探ってみます。
どのような場所に存在し、描かれたのか。何が世界にめぐらされたのか、を考えてみました。
七宝文様の遺物は、エジプトには、紀元前3000年前にありましたが、それらとは比べる意味がありません。
正倉院の七宝文様は、8世紀のものです。今回は、チベット・パガン・ムスタンの11~13世紀を比べてみました。金剛寺では、12世紀に造られたものが、17世紀に修理された記憶が残っています。多宝塔は金堂と同じものです。仏教伝来以降の彩色がずっと続いていたと思います。
元禄時代になると、ヨーロッパからの伝来で、コバルトが使われ始めます。江戸時代に珍重されたものです。
多宝塔の中では見つかっていないので、多宝塔の内部は、以前の彩色と思われます。」
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月03日
日本企業のインドネシア進出
29日、桃山学院大学の小池先生の講座「日本企業のインドネシア進出」に参加しました。
「現在の日本の経済成長は下り坂です。一方のインドネシアは、右肩上がりで成長中です。その中で、日本企業の活躍のウエイトが大きくなっています。自動車部品工業からコンビニ・通販のサービス産業が増えています。
今年から、カタール航空が関西空港から直行便を飛ばし、インドネシアへは7時間で到着できます。インドネシアの東西は、アメリカ合衆国と同じで、時差が3つに分かれていて、同時~2時間遅れです。人口は日本の2倍です。
日本人がインドネシアに進出するのは、中央値と言われる人口の構成の中で、0~100歳で評価して、日本人が45.8歳に対し、インドネシアは28.9歳だからです。2030年まで、人口のボーナス期間で、若い働く人が多い状態が続きます。経済発展が望める状態です。
二輪車・四輪車は、ヤマハ・ホンダが中心で、クレジットの普及でバイクが売れています。日本の企業が進出してきたからです。また、2009年にセブンイレブンも進出しました。
日本との違いは、コンビニが、飲食スペースを広いことです。インドネシアは赤道近くの国のため、エアコンが効いている店で飲食できることがヒットの要因でした。現在、インドネシアには、2011年に楽天が登場し、2012年には、住友商事のSUKAマートがオープンしました。日系の通販がスタートしました。
インドネシアの一番の問題は、交通渋滞が読めないことです。道路事情が悪く、自動車・トラックが多くなり、期日指定が難しくなっています。また、通販の信頼性が十分でなく、社員教育から始めなければなりません。近年、インドネシアの経済成長とともに、日本的なサービスが売り物のコンビニや通販が、インドネシアに進出しています。消費文化にマッチした会社が、インドネシアに目を向けて、進出を考え出しています。」
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月03日
世界から愛される日本の食、その現状と課題(その2)
21日、「世界から愛される日本の食、その現状と課題(その2)」が、桃山学院大学の大島先生により行われました。
「中国の農業には、三農問題があります。①農民の差別 戸籍を移すことは難しい。②インフラの設備が遅れている。③農業が儲からない。耕地面積が小さく、儲けることができない体制。経済発展は都市部に集中していて、農家の兼業ができない点です。
日本の場合は、輸入農産物への依存が拡大しています。特に野菜類の輸入が拡大して、現在は生鮮野菜の約60%が中国産です。1995年は20.7%でしたが、2009年には58.0%と拡大して、底堅い状況が続いています。
中国の農産物の生産は、1960年に人口の増加が見られて、集団政策方式では、効率が悪く、不足していました。2000年には、生産過剰となり、余裕が出ました。2003年後半以降、価格が反騰し、生産はV字回復しました。2007年、生産量が5億トンの大台を回復し、食糧問題は影を潜めました。
1990年代以降、中国・香港では「毒采(農薬に汚染された野菜)」が大きな社会問題となりました。農薬の使い方を知らない人が多く、指導されることもありませんでした。残留農薬問題の発生で、検査が厳格化し、輸出企業は、従来からの仲買人による集荷方式の見直しを迫られました。検査の厳格化と検査項目の増大です。現在は400種類の農薬の検査が行われています。このように、中国政府の新政策や企業の改善策で特に輸出食糧においては、一定の進展を見せていますが、中国国内の末端農業の管理の徹底と、食品企業の改善は、なお時間を要するものだと考えられます。
輸入国である日本では、自国での食糧生産は難しく、中国政府・企業への技術協力が大きなカギとなります。また、近年、中国農村では、2007年に法整備が進み、「農村合作社」と呼ばれる共同組合組織(農協的なもの)の成立が急増しています。」
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月03日
タスマニアの現状(その5)
27日、難波のまちライブラリー@大阪府立大学で、西根孝平(タスマニア・デビル)さんの第5回タスマニア講座が行われて、参加しました。今回は、私の友達にタスマニアへ旅行したいとの思いの人がいて、詳細を聞いて、参加したいとのことで案内しました。
今回はタスマニアツーリズムの最終回です。エコツーリズムを提唱されている西根さんが、自分の思いを語ってくださいました。PRビデオで、タスマニアの現状を紹介された後に、貴重な地図を持参されて、オーバーランド・トレッキング(2~3月がシーズン)を紹介されました。6泊7日の予定で、北から南への一方通行で、参加者の数は、季節で総数規制が行われるので、2月のシーズンに参加するのは、今からでは難しいとの話でした。
中根さんのツアーは、10~15日間を目標に、できるだけ日数を確保し、車をチャーターして、3~5人で自炊しながらのツアーになるそうです。お客さんの希望で、ホテルや貸別荘を借りて、ゆっくりしたコースを取りたいとのことです。街の案内は考えず、食料の購入時に、一緒に回るぐらいだと話されました。
タスマニアは、流刑の地でしたが、犯罪などの危険は少ないところだそうです。忘れ物をしても、ほとんど持ち主へ返ってくると話されていました。
中根さんは、現地では、化学洗剤などを使わないように、食事のカスも残さず処理して、できれば髭を剃ることがないようにと、伸ばされていました。
オージードルが高くなっていて、消費税も高いようです。オーストラリアでもインフレ率が高く、外食(人件費が高いので割高になる)は、極力控えて、行動することを考えられていました。
この日は最終日で、手持ちのタスマニア関係の図鑑や図書を、数冊持参されて寄附されました。今回も最後に皆さんで、恒例の図書の寄附を行った証拠に、集合写真を記念に写しました。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月02日
平成25年「人権を考える市民の集い」
23日、ラブリーホールの小ホールで開催された「平成25年人権を考える市民の集い」に参加しました。
主催者の開会宣言と芝田市長の挨拶が行われた後、人権啓発ポスター応募作品の紹介が行われました。
今回は柳田さんの写真撮影が禁止で、市長の挨拶風景となりました。
第2部の柳田邦夫さんが「災害・事故と人間の尊厳」について話されました。
「福島での原発事故を経験し、感じたことを話します。人権とは、身近な人が他人から、暴力・誹謗・中傷されない社会をつくることだと思います。この問題は、人間社会では難しいことです。その原点を考えると、幼少期の生まれた頃からの問題だと思います。一部の学者の方が子どもの頃の問題に力を入れておられます。』
東日本大震災のように想定外の災難が起こる確率が高い中で、安心・安全の生活に必要な話が続き、最後に、福島で生きる一人の女性に巡った話をされました。
「小林麻里さんという女性で、名古屋で生まれ、精神病院に入院し、退院後、30歳で文化活動に携わって、人生論・哲学などの本を読まれました。39歳で翻訳家の小林彰夫さんと結婚しました。都会で文化活動をするより、と、仲間と福島県飯館村に移住しました。夫のがんが見つかり、急逝されました。お互いが励まし、励まされての生活を決意したところで、原発事故が起きて、全村避難にあわれました。
はじめは、小林さん一人でも残るということも考えましたが、飯野町の農家の空き家を借りて、移住して何とか生活ができています。
毎日、日記を付けており、一年分を本にされました。「福島・飯館・それでも世界は美しい」です。本の中で、「アウシュビッツ」でのフランクルの言葉が書かれています。「それでも人生にイエス」と言う言葉です。
自分の人生の証として書かれてます。一人の庶民の中に、このような生き方を見つけ出された人がいて、私も励まされて、心を動かされました。」
Written by マロンさん