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学芸員の投稿
Update: 2013年12月05日
天野山金剛寺の多宝塔の現地見学
30日、金剛寺の講堂で、秋の奥河内「重要文化財金剛寺多宝塔修理現場特別公開」が行われました。
多宝塔修理特別公開のパンフレットには『多宝塔は三間多宝塔で、こけら葺き(屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて施行する。板葺(いたぶき)の代名詞にも使われる。日本に古来伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。最も薄い板(杮板)を用いる。板厚は2~3mm。)の建物で、内部に本尊大日如来像を安置しています。この塔は、平安時代後期(11世紀後期)に建立され、その後、桃山時代の慶長期に、根本的な大修理が行われ、江戸時代の元禄期には、見直しなどの修理が行われています。慶長期の修理の時に、擬宝珠には施主として、秀頼の名前が書かれています。文化財指定後は、昭和14年に解体修理、屋根は昭和47年に葺き替えられています。
今回の解体修理は、金堂とともに、平成の大修理が実施されています』と書かれていました。現在は屋根が外され、枠組みとなっていて、二階部分が見学できました。
「多宝塔は1178年の創建で、慶長11(1606)年に大修理が、豊臣秀頼によって行われました。そこでは改修に近い修理が行われたと思います。その跡が現在も残されています。塔の内部正面には、黒い須弥壇があり、大日如来と五仏が安置されています。須弥壇の後に二天と、更に後ろに二天があり、八天は四方の扉に描かれています。塔の柱には仏画で二十二体が描かれています。そこでは如来・菩薩・天部などの曼荼羅の空間となっていました。金堂と同じものです。仏教の伝来以降の彩色がずっと続いていたと思います。
元禄時代になると、コバルトが使われていますが、ヨーロッパからの伝来で、使い始められたものだと思います。江戸時代には珍重されました。塔の中では見つかっていないので、内部は以前の彩色と思われます」と、京都市立芸術大学の宮本教授は話されました。
Written by マロンさん
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Update: 2013年12月05日
仏教彩色と金剛寺
30日、金剛寺の講堂で、秋の重要文化財金剛寺多宝塔修理現場特別公開講座が行われました。
京都市立芸術大学宮本教授の「仏教彩色と金剛寺」です。
「金堂・多宝塔も現在修理中で、写真を見てもらいながら説明します。現在と修理記録を比べてみます。はじめに、金堂の修理前の様子です。中央に丈六の大日如来坐像、両脇には不動明王、降三世明王の三尊形式です。種子曼荼羅が置かれて、蓮弁が描かれた天蓋も残されていてます。解体修理中の金堂ですが、天井にも彩色文様が見られます。回りの柱には、漆が塗られて、布を巻いたように絵の具が塗られていました。須弥壇にも蓮の花が描かれています。密教の雰囲気を感じさせます。下陣も豪華だったと思われます。
仏教彩色とは、鎌倉時代に採用された仏塔・寺院の建築彩色で、仏像・仏画・襖絵・書・仏具などに施す尊厳な意匠・画像のことです。古墳時代まで、彩色は非常にお粗末でした。建築は曾木で造られていましたが、そこに仏教が伝来して、石で出来た基壇を組み、建物が造られて、彩色されていきました。
技法・作風を比較することの面白さとその意味を探ってみます。
どのような場所に存在し、描かれたのか。何が世界にめぐらされたのか、を考えてみました。
七宝文様の遺物は、エジプトには、紀元前3000年前にありましたが、それらとは比べる意味がありません。
正倉院の七宝文様は、8世紀のものです。今回は、チベット・パガン・ムスタンの11~13世紀を比べてみました。金剛寺では、12世紀に造られたものが、17世紀に修理された記憶が残っています。多宝塔は金堂と同じものです。仏教伝来以降の彩色がずっと続いていたと思います。
元禄時代になると、ヨーロッパからの伝来で、コバルトが使われ始めます。江戸時代に珍重されたものです。
多宝塔の中では見つかっていないので、多宝塔の内部は、以前の彩色と思われます。」
Written by マロンさん