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学芸員の投稿
Update: 2010年06月28日
水無瀬の立体地図
 大阪と京都の境にある島本町水無瀬(みなせ)。
元々は、水生野(みなせの)と呼ばれ水の豊かな地である。
 写真は阪急水無瀬駅前の立体地図です。多くの地域では、案内図は平板に描かれている。ここは、立体地図で町全体が分かりやすい。現在地を基点としてみると周辺が一目瞭然に理解が出来る。
例えば、実際の山と高低差をつけた地図の山を見比べるとよく分かる。また、地図の道筋には目印になる公共建築物をミニチュア模型にして配してある。初めてこの町を訪れた人には、自分の目的地を把握しやすいだろう。
 町にとっては制作費と時間がかかるが、利用する人々への思いやり、やさしさを感じます。
 ちなみに優しい町として例を挙げるなら今も伝わっている「離宮の水」環境庁の全国名水百選に選ばれている。
この「離宮の水」は、後水尾天皇の離宮跡に水無瀬神宮が造営され、そこに伏流水として出てくる湧き水のことである。
水無瀬神宮境内には、天皇が愛好した茶室「燈心亭」があり、毎年 三つの千家(裏千家、表千家、武者小路千家)や多くの家元が献茶式を行なっている。
近くには、日本最古のウイスキー工場、山蒸留所がある。他には薬品会社もあることから、水が良いことは自然環境に配慮されている町ともいえよう。ぜひ将来も枯れないでほしいと願うばかりである。
Written by α東西南北ω
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Update: 2010年06月28日
ちいき塾 ~~地域の事をもっと知ろう~~
ボランティア活動に興味を持つものの、何から始めたらいいのか、戸惑っている人はいませんか。地域の歴史伝承「ちいき塾」の取り組みをご紹介します。
(読売新聞6月22日記事より抜粋)

元小学校長の筒井さん(大阪市東住吉区)は38年間の教員生活をいかし、地域の歴史を住民に教えたり、DVDや冊子にまとめたりしています。筒井さんは「培った経験を活用すれば、かかわるきっかけを見つけることはできます」「地域のことを知れば愛着がわき、楽しく暮らせますよ」と話す筒井由美子さん
「地元の桑津天神社に祭られている髪長媛は日向から来たとても美しい方で、父の使いで迎えに行った仁徳天皇に見そめられて奥さんになりました」
6月7日夜、東住吉区にある子育て支援団体の事務所で、筒井さんがユーモアを交えながら地元の伝承を紹介すると、集まった50~80代の住民5人から笑い声が起きた。
NPO法人「ハートフレンド」が今年5月から始めた「おとなの楽校」の一つで、毎月2回開かれる「ちいき塾」。
筒井さんは講師として地元に残る言い伝えや歴史などを教えている。 生徒の一人は「塾に参加して地域が身近に感じられるようになりました」と喜んでいた。
筒井さんは小学校教諭として社会科を中心に研究し、郷土史などを教えてきた。 住民主体でまちづくりを考えてもらおうと、同区が設置した「未来わがまち会議」にも参加。歴史に関心を持つメンバー7人と地域の寺社や史跡、伝承などを取材し、「東住吉100物語」としてまとめた。今も区のHPで紹介されており、好評だという。
「ちいき塾」は、6月21日、スペシャル公開講座も開き、大勢の人が集まった。
Written by ユーミン
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Update: 2010年06月25日
かどまの「弁天池」の成因を考える
 弁天池は門真市岸和田一丁目の池です。
 これは門真市史第三巻の岸和田村絵図(東京大学史料編纂所所蔵)で確認すると大和川(寝屋川)の右岸の渕として描かれています。この絵図から見ると大和川(寝屋川)の堤内池沼となります。
 堤内池沼とは河川の堤防の破堤に伴って出来た池沼や排水不良でできた池沼が代表的ですが、弁天池の形状から見ると破堤に伴って出来た水域と推定できます。
 そこで中家文書堤切之覚・同付箋図で確認すると延宝三年の破堤箇所として弁天池付近の堤が記載されており、やはり破堤に伴って出来たものと考えることができます。まさに弁天池公園は延宝三年の水害の化石だったのです。
 門真では宮野町の伝茨田堤と同じく防災モニュメントといえましょう。さらに門真の防災モニュメントを探ってみたいと思います。
Written by 暇仁
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Update: 2010年06月25日
湧き水のなぞを探る 蜆川
これは大江橋方面から大阪駅ビルや東西線北新地駅に向かう降り口の湧水です。付近の湧水地点を地図上にプロットすると、ほぼ堂島川と平行な弧が浮かびあがってきます。
 これは明治時代まで蜆川または曽根崎川という川があった流路跡だったのです。淀川の蛇行流路跡だったのです。
 なお蜆川は近松門左衛門の「曾根崎心中」「心中天網島」の舞台であり、文久6年の壬生浪士組(新撰組)と大坂相撲の力士組の乱闘でも有名な場所でもあります。
 人工改変しても昔の地形は復元される、大変興味深いところです。
Written by 暇仁
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Update: 2010年06月23日
大阪「橋」めぐり~末吉橋~
地下鉄の松屋町駅を下車すると、すぐ目の前に流れている東横堀川。「末吉橋」は、その川に架かっている橋のひとつで、最初に架けられた詳しい年号はわかりませんが、江戸時代初期に作られたことは確かとされています。造った人は末吉孫左衛門。彼は南蛮貿易で活躍した平野の豪商で、橋の建設に尽力しただけでなく自らの別荘をも橋の西詰めに建てていたとも伝えられています。東横堀川には幕府が直接管理している公儀橋も多くありましたが、末吉橋は町人たちの手で管理されていました。そのため橋の維持費は町筋の人々がお金を出し合って調達していたといわれています。
その後、何度か架け替えが行われていましたが、明治時代に入っても末吉橋は昔ながらの木橋のままでした。鉄筋製となったのは明治43(1910)年。この年、大阪市電が玉造まで延長されたことをきっかけに鋼橋となり、昭和2(1927)年の第一次都市計画事業の折にはコンクリート製のアーチ橋に。完成した橋の大きさは橋長約41.5m、幅員約27.3m。デザインは当時東横堀川に隣接していた長堀川の安綿橋と同じものが採用されており、統一された風景は町のちょっとした名物となっていました。しかし、戦後になると長堀川が埋め立てられて安綿橋は撤去。それにあわせて昭和47(1971)年に末吉橋の拡幅が行われ、橋長が26.9m、幅員が6.2mも延長されました。
現在の橋周辺には、真上に阪神高速1号環状線が走り、すぐ目の前には長堀鶴見緑地線の松屋町駅が存在します。東側には松屋町交差点(松屋町駅開業以前は末吉橋交差点)もあり、末吉橋周辺はまさに交通要所のひとつともいえます。また、住友銅吹所跡や直木三十五文学碑といった歴史的遺物も多数存在し、「まっちゃまち」という呼び名で有名な松屋町筋の商店街もあり、まさに末吉橋は松屋町の中心地であるといっても過言ではないでしょう。
Written by take-o
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Update: 2010年06月22日
6月の観光案内所ディスプレー
河内長野市の観光案内所を「かわちながの観光ボランティアガイド倶楽部」が預かっています。毎月、倶楽部員の女性Mさんが、担当されてディスプレーを飾って来ました。
6月は「水無月」です。月名の由来は、大きな農作業を「皆し尽くした」と言う説が在るそうです。6月の花「紫陽花」は、「あじ」は「あつ」で集まる事。「さい」は「真の藍」を訳した物で、青い花房が集まって咲く事から来ているそうです。古くは「アヅサイ」とも呼んで居たようです。
紫陽花の切り絵は、紫陽花の花の顎、一つ一つを切り抜き、下地にカラー和紙を使って、花の色を出しています。色とりどりの12色の紫陽花が咲きました。今月の香合(こうごう:香りを入れる蓋つきの容器)は、葉山有樹さんの作で、右から絵柄が、春(蝶々)・夏(ブドウ)・秋(紅葉)・冬(お正月)の絵柄です。
花器の両端には、ミニチュアの傘が置かれて居て,Mさんが京都で見つけられて手に入れられた物で、紫陽花と花菖蒲の絵が描かれています。
展示は、案内所管理班の男性6名と女性1名が、応援されて完成しています。
河内長野観光案内所は、河内長野駅前のバス乗り場前に在ります。
電話0721-55-0100(9時から15時まで)見に来てください。水曜日が休館です。
次回は7月2日に「七夕」をディスプレーします。
Written by マロンさん
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Update: 2010年06月22日
おとなも子どもも楽しめる絵本「東住吉物語」より
「杭全法界地蔵尊」より
杭全には古くから(寛政4年1792年建立)、大きくて(お頭だけで37cm)立派なお地蔵さんがあります。
珍しいことに肝心のご本尊は雨ざらし、拝む所は屋根付です。
お堂も無かった昔は、雨のとき、暑さ寒さのとき、見かねて笠や頭巾をかけていました。しかしすぐ風で吹きとばされてしまうので、「地蔵さんは覆いが謙いだ」と解されたいわれがあります。
建立時の祭具には「新在家前地蔵」と刻まれていますが、今は「杭全法界地蔵尊」とよばれています。
新在家は杭全の旧地名で、法界とは大宇宙を含むあまねくという広い範囲で、一切の願いごとを叶えてくれる格の高い地蔵さんであることを表しています。
大型であり、しかも半跏座(片足が垂下)の地蔵菩薩は珍しく、老若・遠近に拘わらず年中参詣者が絶えません。
近年、若い人が受験の前に合格祈願に参詣するようになりました。
(写真は絵本の一部)

Written by ユーミン
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Update: 2010年06月21日
中野の鍼と「針中野」
中野の鍼
中野鍼灸院(なかのしんきゅういん)は平安時代の延暦(782~805)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号です。平安時代から一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っています。初代の治平氏は延暦20年(801)生まれ、平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像」(スイケツグウゾウ) (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されとのことです。その木像は現在も中野家に伝えられています。3代目主禮氏は年度が不明ですが、旧暦満月の8月15日に開業されたので、「月見の鍼(はり)」と呼ばれ、今もその治療に訪れる人が多いといわれています。南北朝の頃に、足利軍の戦火により屋敷を焼失したが、大師伝授の木像2体と鍼と漢方薬書が残り、今日に至っているとのことです。宝暦13年(1763)発行の摂津平野大絵図にも、中野村小児鍼師と記されています。明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていました。大正3年に南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられました。 南海平野線が廃線された以降、現在も旧中野駅跡地に道標が残されています。大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年の開通時には最寄りの駅名を「針中野」としたといわれています。現在も駅名が継続され、地名となって残っています。当時では珍しく遠くから見えた3階建ての塔屋敷は、老朽化したために昭和50年に取り壊されました。
Written by ユーミン
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Update: 2010年06月18日
高野街道の南天の道を経て、惣代の棚田から地蔵寺まで
本日、河内長野市内の老人会の皆さん35名が、「かわちながのウォーキングコース一覧」の第15コースを選択されて、ガイドの依頼が在り、かわちながのボランティアガイド倶楽部の6名が対応したので、コースの紹介をします。
標準コースを一部訂正して実施されました。今回は、三日市町駅を9時に出発して、駅前で高野街道と三日市遺跡の紹介を行いました。その後、西高野街道の8里里程標前で、高野山と京都東寺の往復で、弘法大師が通った道筋を説明して、片添町の高台から、市内の南側の風景を見て頂きました。
その後、なんてんの道(旧南海電鉄の軌道跡)を使い、美加の台駅前に出ました。ここから弘法大師が刻まれた、石仏がお祀りされている石仏寺で休息して、トイレ休息をしました。その後、河内長野市の「隠れ里」である「惣代」に入りました、旧石仏城の麓にある、集落で古いお宅が残されています。南天と石垣の素晴らしい風景と棚田が素晴らしい所です。山の中にササユリが可憐に咲いていました。峠からの古民家を含めた棚田の写真を見てください。
その後、杉の林の中を千早口へ向かい、再度高野街道の出ました。ここからの天見富士(旗尾山)の眺めは、高野山への最終の紀見峠を越える所まで到着したと、一息付いた昔の旅人の気持が想像できます。「御所の辻」から地蔵寺へ向かいました。地蔵寺は「ホトトギスの寺」として有名な、大阪府の名勝に指定されています。連体和尚が再建されています。本尊は運長による地蔵菩薩半跏像です。西代藩二代目藩主本多忠統により九華山の山号を受けています。12時15分に到着しました。食事後境内を散策して解散しました。
Written by マロンさん
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Update: 2010年06月18日
阪田三吉の晩年
「阪田三吉」と「北田辺の大楠」
「銀が泣いている」は、阪田三吉の有名なことば。
「ほんとうの将棋とは、指している人間の精神がその駒に入り切ってしまうこと」「だから宿敵に勝ちたい、という一念だけで打ったとき銀が涙をぼろぼろこぼして泣いた」「わたしは悪うございました。あまりに勝負に拘りあせり過ぎました」と、阪田が銀になってうつむいて泣いるという意味らしい。
その関西を代表する将棋名人、阪田三吉は、明治三年に堺市に生まれ、通天閣附近で暮らしていたことはよく知られていますが、昭和十八年からは、東住吉区田辺東之町三丁目(現 北田辺六)に住んでいました。
阪田三吉はこの場所で終戦を迎え、翌年の昭和二十一年七月に亡くなりました。
映画や舞台の彼は誇張されているとはいえ、若いころは勝負に徹するあまり、世の常識を逸脱するところがあったといいますが、ほとんど読み書きができなかったにもかかわらず、独学で当時最高位の八段に上りつめたことは将棋の天才と言えるでしょう。
晩年の阪田三吉が、田辺に落とされた「模擬原子爆弾」に肝をひやしたのではないか・・・、晴れた日には杖をつきながらこのあたりを散歩したのではないか・・・と、すぐ近くの樹齢300余年の「北田辺の大楠」を見上げながら思いを巡らせています。
(写真は北田辺の大楠)

Written by ユーミン