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Update: 2015年2月9日
秀吉・秀頼の社寺修復
市民大学くろまろ塾「大坂の陣400年シリーズ」の「秀吉・秀頼の寺社修復」が、元近畿大学教授の櫻井敏雄さんの講演がありました。
『秀吉・秀頼時代には、大きな社寺の改築を行って来ました。桃山文化を形成する建築は、近世であるにも拘らず、遺構の重要な物が失われており、その全貌は見えにくい物です。
河内長野市には、金剛寺・観心寺がありますが、両寺院とも秀頼が改修しています。
金剛寺には力が入っていた事が見られます。
桃山文化の建物は、絢爛豪華と考えられるが、室町時代の後半を上手く合わせると、桃山文化の基本が見えると考えます。
室町時代の終りには山城であった物が、平城となり城下町の出現です。道路が碁盤目に造られて、その中心にお城の天守閣があり、町屋が造られて行き、社寺が必要となり配置されて行きました。
今回は秀頼が再建した物を中心とします。関ヶ原の戦いで敗れて、摂河泉の65万石の大名となってました。
秀頼が85件の修理を行っていた中で、山城は21件で、摂津23件、河内10件、和泉9件で小計42件の工事です。摂河泉を見ると、全体の半分を工事しています。
歴史の中で言われているのは、豊臣方の財宝を使わせるための工事だと言われていますが、最近の研究では、豊臣秀頼・淀殿の寺社造営の話は、多くの造営で、秀吉が大阪城に遺した金銀は、底を尽くのではないかと言うが、大坂の役で多くの戦費を消費したにも拘らず、大阪城落城後、約2万8千枚の金と約2万4千枚の銀が、幕府に没収されています。
写真で寺社の建物を写真で紹介されました。
今回は桃山時代と言う物が、考えて頂けたと思います。その中で和歌山との繋がりが、木喰応其との交流で、大工方の交流が見られます。
慶長年間には各大名家が、競って建築家を集めて、城下町の建設を始めてます。
その中でどの様な建築物が、桃山時代の物かを考えて下さい。』と結ばれました。
Written by マロンさん
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