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諸井堰(もろいぜき)
津田川上流、土生滝町の意賀美(おがみ)神社から南へ約500メートルのところに、今はコンクリートで固められている井堰(いぜき)があります。天平の昔、橘諸兄(たちばなのもろえ)が設けたものとの伝承があり、諸兄堰(もろえぜき)とも呼ばれていますが、津田川の右岸・左岸の双方に分水するかたちをそう呼んでいるとも考えられています。
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岸煉の煉瓦塀(きしれんのれんがべい)
明治~大正時代に築かれた岸和田煉瓦株式会社(岸煉)の煉瓦塀が撤去されることから、市民の手によって移設・復元されました。岸煉の煉瓦は質の良い土を石炭の強い火力で焼き上げるため、高品質で耐久性のあるものとされ、旧下関英国領事館(国重要文化財)や同志社女子大学ジェームス館の校舎など日本各地で使われています。創業者の山岡尹方(ただかた)がキリスト教徒だったことから、煉瓦には十字架をあしらったクロス「×」が刻印されていることが知られています。
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牛滝温泉四季まつり(うしたきおんせんしきまつり)
12,000坪の敷地内には、天然温泉大浴場・露天風呂・足湯・レストラン等を備える宿泊施設を始め、本格的なカナダ産のログハウス、キャンピングサイト、バーベキュー広場などがあり、春は桜、夏は納涼、秋にはもみじ、冬は山々の雪景色など、清流牛滝川をはさむ四季折々の自然美が楽しめます。
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杉江能楽堂(すぎえのうがくどう)
観世流能楽師・杉江櫻圀が、岸和田藩最後の城主・岡部長職から城内にあった能舞台の一部を譲り受け、大正6年に設立しました。現存する民間の能楽堂としては、府内最古のものです。
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かしみん焼き
岸和田でも浜地区に伝わる「かしみん」。“かしわ(鶏肉)”と“ミンチ(牛脂)”を具材にした洋食焼きのことで、鶏肉・牛脂の濃厚なうま味とパリッとした生地の組合せが絶妙。テレビ・雑誌で取り上げられるなど、知名度ある岸和田のソウルフードです。
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捕鳥部萬の墓(ととりべのよろずのはか)
豪族物部守屋に仕えた捕鳥部萬の墓と伝えられています。日本書紀によると萬は物部氏滅亡後、当地に逃れ、朝廷の大軍相手に孤軍奮戦した後に自害しました。朝廷はその遺骸を八つ裂きにましたが、萬の飼犬が主人の首をくわえ去り、この地に埋葬した後は側を離れることなく飢え死にしました。朝廷は義犬として称え、萬と飼犬の墓を並べて造り、厚く葬ったと言われています。市指定史跡。
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蛸地蔵駅(たこじぞうえき)
駅舎は大正14年竣工の南欧風の駅舎で、シャンデリア風の照明や天窓にはめ込まれた「敵から城を守る蛸を引き連れた地蔵菩薩」の説話に基づいたステンドグラスなど、大変おしゃれな駅です。南海沿線でこの時期の駅舎は殆ど残っておらず、貴重な存在となっています。令和3年、国登録有形文化財に登録されました。
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旧岸和田村尋常小学校舎(きゅうきしわだむらじんじょうしょうがっこうしゃ)
もと岸和田村尋常小学校舎で、その後、岸城幼稚園や市役所仮庁舎などとして使われた建物で、明治36年建築。現在は中央公園内に移築保存されています。正面玄関は入母屋屋根を頂いた寺院建築風で、御殿式和風木造建築です。国登録有形文化財。
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岸城神社(きしきじんじゃ)
南北朝時代、沼邑の長が老親の病平癒を願って京都の祇園感神院(現・八坂神社)から牛頭天王を勧請。後に、小出秀政が岸和田城を完成させた頃、岸和田郷内にあったと思われる八幡神を併祀し、代々の城主・住民に崇拝され、明治維新になって社名を岸城神社と改めました。なお、例年だんじり祭(9月祭礼)の宮入の際には、15台のだんじりが宮入をします。
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観蔵院(通称:高見観音)(かんぞういん)
正式名称は、受楽山浄聖寺観蔵院・真言宗三宝院末。天守の鬼門守護として建立され、海岸寺より移した木造聖観音立像(平安期・市指定文化財)があります。毎年、節分の日には、節分の行事が盛大に行われ、年男を招いて餅まきを行います。夜ともなれば一段と賑わい、護摩木が赤々と燃え上がり、ヒイラギのお守りを求める人で境内はにぎわいます。