みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 平成27年02月26日
学芸員投稿について
大阪ミュージアムの魅力を広く内外に発信することを目的として、学芸員の皆様のご協力のもと、平成20年度から運用を開始いたしました「大阪ミュージアム学芸員制度」につきましては、このたび、更なる情報発信力の強化を目的として、投稿情報発信場所を、これまでの大阪ミュージアム構想公式ホームページから、大阪ミュージアム構想公式フェイスブックへと変更させて頂いております。
そのため、投稿記事につきましては、申し訳ありませんが下記アドレスにアクセスの上、内容をご確認して頂きますようお願いいたします。

https://www.facebook.com/osaka.museum.concept
Written by 大阪ミュージアム構想グループ
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月17日
渡来人と高向玄理(古代の河内長野)
図書館文化遺産講座で「渡来人と高向玄理(古代の河内長野)」が、地域文化遺産啓発専門の尾谷先生によって行われました。始めに渡来人の波の話が行われました。古代の日本人が、難民の渡来人を受け入れていた事が解りました。第4波までの流れが聞けました。
『第1波は縄文時代晩期から弥生時代前期、第2波は古墳時代の4世紀~5世紀前後及び5世紀後半、第3波は7世紀(百済・高句麗の滅亡)、第4波は近代の20世紀前半です。』
今回はその中で第2波の時代を中心に話されました。4世紀から6世紀に掛けて朝鮮半島での三国の争いが中心です。その結果古墳時代の文化が前期と後期に、大きな違いが出て来ています。
前期の古墳では、竪穴式の石室が在り、長い割り竹形の木棺に、只一人だけが埋葬されていました。古墳時代中期から後期には横穴式の石室が造られてます。
古墳の副葬品も変わって来て、鉄製品が多くなっていきます。中には金メッキした金・銅製品や馬具・葺きなども埋葬されていました。日本では馬と言う物が、古墳時代に朝鮮半島から入ってきました。
4世紀から7世紀に至る三国(百済・新羅・高句麗)に中国の隋や唐が加わり、争いが起きて、騒乱の時代となりました。
608年に第三回目の遣隋使として、高向玄理の他8名の留学生、留学僧等が送られました。その後640年高向玄理が在唐32年を終えて帰国しました。乙巳の変では、留学生活した人たちが帰国して、政治に参画する様になり、玄理は国博士となりました。
纏めとして、古墳時代渡来人が関西に移動して来て、大化の改新以降には、錦部郡には百済郷、餘部郷と言う地名が残されています。錦部氏も高向氏も文官系として、記録・文筆の官史として登用されてます。昨年中国の西安市の大興禅寺の境内に、高向玄理公の顕彰碑を建てて来ました。その後、昨年末には河内長野市のくろまろの郷にも顕彰碑を建てられてます。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月17日
文化財の宝庫・河内長野市の天野山金剛寺の見学
当山は天野川、和泉道を寺内へ巧みにとりこむ伽藍配置で、天野谷の自然に溶け込んだ歴史的景観を呈す。仁王像の御座す総門から入山、北朝三院の御座所跡・観蔵院の白壁塀沿いの和泉道=写真=を歩み、増長・持国の二天を有す楼門を潜る。築地塀内の御影堂を核とする三宝院伽藍と金堂(修理中)・多宝塔を中心の伽藍を解説付で見学。寺内は平安の中興時の景観と遺構を今に留め、国指定史跡名勝地。当山に国宝3件、重文52件がある。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月17日
かわちながのサロン@まちライブラリーNo1
第一回目は2月7日、市民活動・文化でかわちながの世界民族音楽祭企画運営委員の宝楽陸寛さんのお話がありました。
2階の展示会場では、河内長野市制60周年を記念して、観光をキーワードに、河内長野の「江戸・戦前・現在・未来」をテーマとした、展示企画が開催されています。10時半から「キーパーソンと語り合う河内長野の未来」には、14名の方が参加されました。
南海電鉄の脇田さんから、『展示会の開催と毎週土曜日に、ゆかりの方に来て頂いて、サロンを開く事になりました。ゆるい会として運営します。』とサロンマスターとして話されました。方針として会議に関連の提供して頂く本の紹介で、自己紹介を兼ねて3分間を提供されました。
メインコメンテーターの宝楽さんのお話で最初に、パワーポイントのポスターには、『金剛寺の屏風画の日月山水図屏風の紹介があり、滝畑の風景を想像できます。』その時に白洲正子さんの「隠れ里」に滝畑の項で、日月山水図の話もでました。
ワールドミュージック河内長野で計画された、民俗音楽を中心とした、世界の音楽の話が聞く事が出来ました。ラブリーホールの企画は年間100公演があり、近隣地区のホールの30公演を大幅に上回っている先進的なホールです。色んな音楽の話が聞けて良かったです。
『新婚旅行ではバリ島のウブドに行き、河内長野市の様な風景が素晴らしかった。バリ島と言うと観光施設が多くあって、良い所だと思われますが、ウブドでは田圃と一本の大きな道と猿がいる、自然豊かな所です。地域と民族の交流が思いを馳せる所です。それが河内長野市を連想させる原点です』と結ばれました。
最後の河内木材を使用して、四角なタンバリンを皆さんで造りましょうと言う、イベントの紹介に興味がありました。
いろんな分野の方が集まったので、話の種がつきませんでした。
Written by マロンさん
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Update: 平成27年02月09日
河内長野市・下里の「九頭神(くずしん)」伝説
弘法大師が槙尾山施福寺へ行く途中、下里谷の茅原に来ると急に黒雲がたちこめ雷鳴と共に沢から頭が九つの大蛇が現れ、口火を吐き襲ってきた。大師が衣の袖で振り払い念仏を唱えると、白と黒の二匹の犬を伴った狩人が現れて退治した。大師は名を尋ねると「一字金輪の化身、丹生大明神」と告げて消えた。大師は土を盛り九頭神山と名付け南無阿弥陀仏と念仏を唱えた。因って地名は南無阿弥陀仏(なはいだ)となり九頭神の森=写真=に祠が残る。
Written by 岩湧太郎
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Update: 平成27年02月09日
修理を終えた天野山金剛寺の多宝塔
河内長野市天野町にある真言宗御室派大本山・天野山金剛寺では、平成21年11月から平成の大修理をしている。金堂と多宝塔、鐘楼などが対象で、このほど重要文化財指定の多宝塔の修理が終わった。多宝塔は平安時代末期の建立とされ、元禄に徳川綱吉が行って以来の修理であり、柿葺きの屋根や漆喰塗の亀腹は真新しくなり、垂木などの木部、相輪などの金属部も塗装をし直された。廻縁の擬宝珠の覆鉢に豊臣秀頼の銘があるのに注目。
Written by 岩湧太郎
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Update: 平成27年02月09日
悪事災難を除き吉祥招福を祈願する天野山金剛寺の大護摩供
河内長野市天野町にある真言宗御室派大本山・天野山金剛寺で、2月3日節分に厄除星祭大法要・柴燈大護摩供法要が行われた。読経のなかで、食堂前に用意された護摩壇に灯明から移された松明の火で点火すると、たちまち真っ白な煙がモクモクと立ちのぼり、龍が天に昇るように大きな塊となって空へと消えて行く。この大きな煙や火柱に無病息災・諸願成就を祈願する。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月09日
秀吉・秀頼の社寺修復
市民大学くろまろ塾「大坂の陣400年シリーズ」の「秀吉・秀頼の寺社修復」が、元近畿大学教授の櫻井敏雄さんの講演がありました。
『秀吉・秀頼時代には、大きな社寺の改築を行って来ました。桃山文化を形成する建築は、近世であるにも拘らず、遺構の重要な物が失われており、その全貌は見えにくい物です。
河内長野市には、金剛寺・観心寺がありますが、両寺院とも秀頼が改修しています。
金剛寺には力が入っていた事が見られます。
桃山文化の建物は、絢爛豪華と考えられるが、室町時代の後半を上手く合わせると、桃山文化の基本が見えると考えます。
室町時代の終りには山城であった物が、平城となり城下町の出現です。道路が碁盤目に造られて、その中心にお城の天守閣があり、町屋が造られて行き、社寺が必要となり配置されて行きました。
今回は秀頼が再建した物を中心とします。関ヶ原の戦いで敗れて、摂河泉の65万石の大名となってました。
秀頼が85件の修理を行っていた中で、山城は21件で、摂津23件、河内10件、和泉9件で小計42件の工事です。摂河泉を見ると、全体の半分を工事しています。
歴史の中で言われているのは、豊臣方の財宝を使わせるための工事だと言われていますが、最近の研究では、豊臣秀頼・淀殿の寺社造営の話は、多くの造営で、秀吉が大阪城に遺した金銀は、底を尽くのではないかと言うが、大坂の役で多くの戦費を消費したにも拘らず、大阪城落城後、約2万8千枚の金と約2万4千枚の銀が、幕府に没収されています。
写真で寺社の建物を写真で紹介されました。
今回は桃山時代と言う物が、考えて頂けたと思います。その中で和歌山との繋がりが、木喰応其との交流で、大工方の交流が見られます。
慶長年間には各大名家が、競って建築家を集めて、城下町の建設を始めてます。
その中でどの様な建築物が、桃山時代の物かを考えて下さい。』と結ばれました。
Written by マロンさん
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月09日
福まきで賑わう節分星祭の観心寺
 河内長野市寺元にある檜尾山観心寺では、2月3日に節分星祭があり、厄除けや開運を願う大勢の参拝者に、ゴクマキといって福豆や紅白の餅が撒かれた。特設の櫓や建て掛けの塔から手を伸ばす参拝者に向かって勢いよく撒かれた=写真=。餅には朱で印をつけた、景品が当たるものが混じっていて、思わぬ福を受け取った参拝者が喜んでいた。ゴクマキは午前と午後の2回おこなわれ、境内には露店も出て1日中大勢の参詣者で賑わっていた。
 また本山は節分に、弘法大師が勧請したと言われる北斗七星をまつる星祭の厄除けで知られている。星供とも言いわれ、立体曼荼羅に配置された星塚巡りをするひとを多々見かけた。人によって生まれた年、月、曜日の日を司る不変の四種類の星と年によって変わる九曜星があり、厄年の人はこの星を供養し祈祷を受けることで厄除けをする。これを年の変わり目である節分に厄除け・無病息災・家内安全を祈願する信仰である。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 平成27年02月09日
星に祈る(観心寺節分祭)
くろまろ館企画展示「星に祈る」観心寺節分祭りが1月24日~2月28日まで、くろまろ館特別展示室で開催されています。
観心寺には、金堂を取り巻く様に、7つの星塚が祀られています。星塚のあるお寺は、全国で観心寺だけです。何故、観心寺に星塚が祀られる様になったのか。平安時代の初めの、大同3年(808年)、修行をしながら、各地を巡っていた空海は、修験道の開祖の役小角が、開いたと言われる雲心寺を訪れました。
その後、空海は再びここを訪れて、寺の名前を観心寺と改めました。
空海は、このお寺の境内に北斗七星を勧請しました。すると天から七つの星が降って来て、金堂の回りに星塚が出来たそうです。中国では北極星の回りを、すべての星が回っていて、特に北極星が中心で最高神の天帝と言われ、その周りをまわる北斗七星が、天帝を守る星と考えられました。
金堂には七星如意輪観音を祀り、貪狼星から右回りに、木の根元に星を表す石が置かれていて、破軍星まで7つの塚を巡り、それと最後に鎮守の訶梨帝母天を回ります。
毎年、節分の2月3日に星供養が境内で賑やかに行われ、餅撒きも行われます。
今回は観心寺より預かっている、江戸時代から昭和初期に造られていた、版木や印章122点が観心寺の槙本院から預かり、5点が展示されています。
密教の星供養と言うのは、平安時代に祈祷や呪術で国や人の災難が無くなり、平和になると信じられてました。唐へ留学して本格的な密教を授かった空海は、祈祷の第一人者として、天皇や朝廷から大きな支持を受けました。
密教では2月3日の節分に星曼荼羅と言う絵図を掲げて、護摩を焚いて、祈る星供養や星祭と言う行事が行われます。
近隣の方々が沢山訪れて星祭に参加されます。今回は観心寺に保管されている、数枚の絵図の中で、描かれた年代は不明ですが、金堂を中心に7つの星塚が、描かれた物が展示されています。
Written by マロンさん