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高槻シティハーフマラソン大会
新春恒例の「高槻シティハーフマラソン大会」が毎年1月、総合スポーツセンター陸上競技場を起点に開催されています。全国から約8,000人のランナーが参加し、淀川・芥川の堤防や市街地を回るハーフ、5キロなどの各コースを力いっぱい駆け抜けます。
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今城焼
高槻ははるか昔、焼き物の一大生産地であった土地です。実際、大規模な工房跡、窯跡が発掘されており、「新池ハニワ工場公園」として再現され、観光スポットにもなっています。「今城焼」は、高槻がかつて陶芸文化発祥の地であったというメッセージをのせて、全国の飲食店などで料理栄えする器として使われております。土の香りがして、どこか懐かしいような、それでいてどこにもない新しさがあり、幸せな気分にさせてくれる器です。
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高槻うどんギョーザ
高槻市北部で昭和50年代半ばより脈々と愛されてきた家庭料理。おやつにも、ビールのおつまみにもピッタリ!肉や卵、ニラなどの餃子の具材を、皮の代わりに細かく刻んだうどんと混ぜ合わせ丸めて焼き、餃子のタレやポン酢をつけて食べます。 見た目はお好み焼き、味は「ギョーザ」というのが特徴です。ユニークな「ご当地グルメ」としてテレビなどのメディアでも話題になり、 「高槻名物」として市民に親しまれています。
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高槻の寒天づくり
高槻の寒天づくりは、1787年ごろ、美濃国加納藩主永井家の領主:宮田半平が、伏見の美濃屋利兵衛から学んだ製法を、郷里の高槻城山に持ち帰り改良して、「細寒天」の製造法を確立・産業化したことに始まったとされています。
高槻の山間部は、①製造に適した冬の寒さ ②天草を煮溶かすのに必要な薪や炭が豊富 ③淀川の河港と山道で結ばれ、原料の入手や製品の出荷のために水運が利用できた、などの好条件が重なり、寒天づくりが大変盛んな土地になりました。それ以来、地域に根ざし、上質の細寒天で海外にまで知られた、文化的・産業的価値の高い「寒天の郷」です。 -
三箇牧トマト(さんがまきとまと)
その歴史は、昭和30年代から始まり、収穫期は11月~翌年6月頃までとなっています。
この地域のトマト栽培農家が三箇牧トマト部会を結成し、高品質なトマトの生産に取り組んでいます。特に3月頃に生産される濃縮トマトは、糖度が10を超え、好評を博しています。 -
服部越瓜
服部越瓜は、高槻市塚脇地区で江戸時代から作られており、徳川家康が賞賛し、幕府献上品としたとも伝えられています。概ね100年前から大阪府内で栽培されてきた野菜等の基準を満たしている、なにわの伝統野菜として認証されています。
現在でも高槻市塚脇地区の農家で栽培され、粕漬けにして販売されたりしています。7月中旬の収穫の最盛期には、毎年品評会が開催され、伝統野菜の栽培農家は生産技術を競い合っています。しかし、加工業者(酒屋)が減っている中、主に粕漬けとして加工・販売するしろうりの生産量は減少傾向にあります。 -
富田の酒造り
富田は池田、伊丹とならぶ「北摂三銘酒」のひとつに数えられる銘醸地です。酒造りに適した良質なお米、阿武山系の石灰層から湧き出る良質な硬水、丹波・丹後からの農閑期の労働力など、昔から酒造りに必要な条件を備えていました。
江戸時代の初めに、富田の酒造りは隆盛をきわめ、最盛期には24軒もの造り酒屋があったと伝えられており、その中心に位置した紅屋は、関ヶ原の戦いのとき徳川軍に協力した功績で、特権的な酒造りの免許(由緒株)を与えられたといわれています。
こうした背景をもつ歴史的な伝統産業そのものが大阪の貴重な財産といえます。 -
原地区の里地里山
原地区は、かつて「千原の里」とも呼ばれ、芥川両岸部、南に摂津峡、三好山(原城山)、北に名刹神峯山寺(H13指定 府立自然公園)を擁し、市街地に隣接する地域として都市圧にさらされながらも、周囲の里山とともに田園風景をかもし出しています。
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高槻森林観光センター
気軽に森と触れ合える観光施設です。
神戸の牧場から直接仕入れた国産黒毛和牛やジビエなどの食材を手ぶらで来て楽しめる屋内型の「森林バーベキュー・ハウス」や、食材の持ち込みによる屋外サイト貸しタイプの「森林バーベキュー・テラス」があります。
敷地内には、安心・安全な国産の原木で栽培されたシイタケの収穫体験ができる「高槻しいたけセンター」が併設され、年間を通じてシイタケ狩りが楽しめます。
収穫したシイタケは、そのままバーベキュー場に持ち込んで食べることも可能です。
また、ログハウス調の建物の風合いを活かしたオシャレなカフェも敷地内に併設され、地元産素材にこだわった特製ドリンクや焼き菓子などエコロジカルなひとときを楽しんでいただけます。 -
普門寺
明徳年間(14世紀末)に建長寺派開山蘭渓道隆の法をくむ僧・説巌によって開創された禅刹です。16世紀後半には、かつては摂津を治めた細川晴元や14代将軍足利義栄が居所としました。義栄はこの寺で宣下式を行い征夷大将軍に就任しました。明暦元年(1655年、江戸初期)には龍渓が明の高僧・隠元隆琦をこの寺に招きました。隠元は宇治に黄檗宗総本山である萬福寺を開創するまで約六年のあいだ住持としてとどまり、後水尾上皇を始め各地から僧俗が集まり興隆しました。
柿葺の屋根が美しい方丈は、昭和52年に国の重要文化財の指定を受け、全体に華奢な造りが特徴です。襖絵は狩野安信の水墨画です。また、江戸時代初期の玉淵の作庭と伝えられる枯山水庭園は、昭和56年に国の名勝に指定され、庭の一角には、細川晴元の墓と伝えられる宝篋印塔がひっそりとたたずんでいます。
また、庭園を含む寺域全域が、平成12年に国の名勝に指定されています。他に直原玉青画伯の襖絵があります。