みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2014年04月23日
正御影供が天野山金剛寺で盛大に行われる
 河内長野の天野町にある真言宗御室派大本山天野山金剛寺では、弘法大師の入定された4月21日(旧暦3月21日)に正御影供が催行されました。
正御影供は、当山で約830年間にわたって伝承されてきた行事といわれ、空海・弘法大師の偉徳を慕い、金堂に供えられた100種類ほどの里・山・海のお供物(=百味飯食・写真上=)をリレー方式で御影堂まで運んで、真如親王筆の弘法大師御影に捧げられる「百味奠供」の法要です。
金堂には見事に盛りつけられた「百味飯食」と餅が供えられていますが、いま金堂と多宝塔が平成の大改修中であるため、仮本堂の五仏堂で行われました。
練供の行列は本坊から楼門をくぐり仮本堂へと歩み、先導の僧に続いてホラ貝を吹きながらの山伏-信徒総代-遍照会-讃仏会-婦人会-詠歌隊-稚児-散華を撒きながらの僧-大導師の順に進みます。信徒総代から詠歌隊までは袈裟を着け、稚児列の子どもは男の子が烏帽子、女の子が冠を頭に付け、服はカスキ(被衣)と袴の出で立ちで化粧を施し親に手を引かれて参列します。仮本堂前で山伏や詠歌隊の人たちに迎えられてお稚児さん、僧侶、大導師が堂内に入り、内陣に安置された本尊・大日如来坐像の周りを巡る法要が営まれます。
仮本堂内での法要が終わると、「百味飯食」が陳列所から御影堂へ運ばれて弘法大師御影に供えられます(=百味奠供・写真下=)。黒の裃に袴、口をマスクで覆った人たちによってリレー方式で手渡して奠供されます。その後、山伏隊に送られて僧侶が御影堂に入り、大師御影にお経を捧げられます。この奠供に加われるのは、天野地域に昔から住んでいる人に限られ、これにカブがあって世襲されているそうです。
奠供が済むと餅まきがあって、正御影供の行事は全てお開きとなります。
Written by 岩湧太郎
学芸員の投稿
Update: 2014年04月23日
「地域情報紙の取材をしているライターさんからの問い合わせ」
17日に地域情報紙の取材をしている、ライターさんからの問い合わせがあり、加賀田の竹藪にある仏様について調査しました。朝7時50分に加賀田へ向けて出発して、明治6年創立の加賀田小学校を右に見て、岩湧山への道「加賀田片添線221号線」に沿って南下しました。途中、峯さんにお会いしアドバイスを頂いた。一つは森さんと言うお宅の裏に、1月7日にお祀りする、子供たちのお守りの場所があり、当番制でお祀りしていた。最近は子供がいないので、地区でのお祀りは、中止したものがある。又、反対側の山の上に、お大師さんをお祀りしている所があり、4月21日に法要があると教えて頂いた。先にお大師様を確認に出かけました。丁度車で出かける、中谷さんがおられたのでお話をうかがった。昔のお話をよくご存知の方で、色々話を伺う事ができました。この辺りは江戸時代に、膳所藩の所轄で、裏山にお寺と神社があったが、明治時代の初めの廃仏毀釈で、お寺が廃寺となり、お宮さんは加賀田神社に合祀された。岩湧山の山頂付近に、七辻と言う場所があり、その西側の山にあったお大師さんの像を、明治19年(1886年)以降に、近くの空き地に安置したとの事でした。現在の中谷さんの家は、本家が移り住まれて、空き家となっていたのを、分家として復元されたそうです。その後、当初の目的である子供を守る場所を探しました。森さんのお宅の横の、細い道を登ると、竹藪や大きな木に囲まれた、小さな平坦地に瓦で出来た仏様が祀られていました。
Written by マロンさん