みんなの広場

学芸員の投稿
Update: 2014年02月04日
堺市で開かれた「NHKラジオ深夜便」のつどい
 市民会館大ホールで1月25日(土)午後1時30分~4時、「ラジオ深夜便のつどい」がありました。杉浦圭子アナウンサーの総合司会で、第1部は演題「医者の父が目指した“明るい最期”」を、作家で在宅医療の医師である日下部 羊氏の講演、第2部は「アンカーを囲むつどい」が行われました。
 講演:父が争いを好まない性格で、競争を避けるために、戦わずに勝ちを譲る、欲望・執着心を抑えることを道教や歴史で独学した。その父から、医者になった後も「治療のやり過ぎは命を落とす、しかし過小にすると癌が再発する」難しさ等々を多く学んだ。父が病気に罹ったとき、食事療法や薬物治療しても治療効果がでない。それは食べたいものを食べないで我慢するストレスの為と考えて、医者でありながら治療や検査を一切止めた。この姿勢を生涯貫いた。死の床についた際も延命治療を拒み、点滴や栄養補給も受けず、苦しみや痛みがないので自然にゆだね、温かく見守った。本人や家族全員が死を受容しているので流れる時間が穏やかである。最期は意識がなくなり安らかに亡くなった。死ぬことは苦しくない。治療は反って苦しみが増し、医療は死に対して無力である。無欲になり執着心を捨てることで上手に死に、死の恐怖心を弱めることを父から教わった。
「アンカーを囲むつどい」:1と3週の金曜日担当の中村 宏アンカー、2と4週の月曜日担当の森田 美由紀アンカーが出演して2人の軽妙なトークショーが行われた。堺市内の名所観光、体調管理、放送中の眠気対策、対談の苦労話などがあり、森田アンカー担当の「私の“がむしゃら”時代」のエピソードが語られた。その後でリスナーとアンカーとの質疑応答形式の交流が和やかに行われ、来場者全員が大満足のうちにお開きになりました。帰りは、玄関で三人のアンカーの見送りの握手を受けてお別れしました(画像はアンカーの見送りの握手)。
Written by 岩湧太郎
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Update: 2014年02月04日
滝畑班の新年会
29日、河内長野市立文化会館の前の「柚乃香」で、新年会が行われました。
12名が朝から次々と会議をこなして、17時に集合しました。柚乃香は3月13日に行われる「市民が創るまち歩きツアー」に使用されるところです。この日は滝畑に関して、色んな打ち合わせ(滝畑の活性化の話、くろまろカフェの下打ち合わせ、滝畑班会議など)が行われました。
創作串焼と水炊きのコースで、最後に雑炊でしめました。会場では、ひまわり娘さんが、百名山を夫婦で回った話や、9期生の先生が夫婦で車を借りて海外旅行された話をされました。英語は出来ないが手で意思の疎通を図られてきたそうです。特に日本人の聴覚障がいの方が旅を上手に行うのは、私も体験したような話です。それが講じて、退職後、家族に反対されながらも、伊勢志摩でペンション経営を3年間実行されたそうです。
1期生のラガーマンは、昭和43年の1ドル360円の時代に、ヨーロッパ旅行をした話をされ、1期生の陶芸家は、昭和38年に給料の2ヵ月分を使って、テントで北海道を20日間かけて旅された話をされました。
篠笛姫は、高校生をホストファミリーとして3名預かった話で、初めての女の子がアメリカ人で、帰国後、両親から招待されて、アメリカへ旅行し、お家を訪問したら、ものすごい豪邸で驚いたと話されました。
3時間半が経つのはあっという間で、仲間のすばらしい体験が聞けました。皆さんが旅行やハイキングを楽しまれてこられたことが分かりました。
最後にひまわり娘さんの92歳のお母さんが作られた小物入れにキャンディが入っていて、1つだけ手袋が入った人が、最後の締めの話をすることになりました。9期生の計測おじさん(杖に車輪がついて、距離の計測を担当)が引き当てて、最後の挨拶をまとめてくれました。
お母さんは一人暮らしで、次回のくろまろカフェのお客様のお土産用の袋を30個作成中だとのことです。
Written by マロンさん
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Update: 2014年02月04日
河南町の観念寺の宮本住職を訪ねて
28日、滝畑班の皆さんと観念寺の宮本住職を訪ねました。新しい「ダム湖に消えた村」という紙芝居が完成して、実演の許可を頂いたので、紙芝居作りの映像を写されていただきました。
「ダム湖に消えた村」を作るにあたっての苦労話と宮本住職のお考えを聞かせていただきました。
「皆さんからの話を頂いて、資料集めから始め、ダム湖に沈んだ村の構想を伝説に基づいて、1つにまとめていきました。平安時代から現在までの大河風のストーリー作りでは無理だと思ったので、ノンフィクション風にデリケートな面を取材して作り上げました。
始めてから1年が経ちました。磨崖仏の時は、1か所だけでしたが、今回は総集編としてこの話をまとめました。
7つの村があって、そのうち3つの村が水の中に沈みました。村人たちの感情は複雑でした。新滝畑台の人々の中でも、移った人と残った人の気持ちを聞きました。今でも行政側に対して恨みを持つ人がいました。一方の行政側も、血尿を出すぐらい交渉で悩んだ人もおられました。
そこで、キャンプ場へきたファミリーが歴史に触れるストーリーにしました。物語の主人公は架空の人です。
現地の谷さんの話を事実とすり合わせて中心にしました。
出来上がった紙芝居を新滝畑台の公民館で行ったとき、はじめは静かでいかめしい感じでしたが、終わりに近づくにしたがって、つらかった思い出を代弁してくれたと喜ばれました。
ストーリーはキャンプに来た親子が谷さんから沈んだ村の話を聞き、治水対策で大雨にも耐えて、飲料水の供給ができ、現在は奥河内として、都会のオアシスになっているというものです。
移動した人も、残った人もどちらが良かったのか結論は出せないが、お互いが一緒にまつりが出来ればと祈っています」と話されました。
Written by マロンさん
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Update: 2014年02月04日
20代で農業参入 就農奮闘記
26日、河内長野地域学の講座には、かわばたファームの河端さんが登場されました。
「はじめに、ビデオを観てもらい、概要を知っていただきます。ビデオは「畑のうた」という題で、副題が「人を幸せにする農業の答えを探すために」です。茶髪でピアスの26歳の若者が主人公です。大阪の伝統野菜を栽培する河端訓史(さとし)さんという河内長野市の若者です。お父さんはサラリーマンで、農地は耕されなくなって、荒れ放題になっていました。4年前に青年は帰ってきて、畑を耕し始めました。栽培したのは大阪産の野菜です。形が不揃いで、大きさもまちまちですが、食べたら分かる美味しいもので、誰かが後の時代の人に残さなければと考えました。
始めたときは周りの人々に変わり者だと言われました。手付かずの荒れた畑を何とかしたいとの考えで、頑張りました。そのこで彼の背中を押したのが、当時付き合っていた彼女の存在でした。彼女は「失われたものを生き返らせたら」と協力してくれました。彼女は、取れた伝統野菜を今風の料理の材料に使いました。「田辺大根のカレー」を作り、同じ未来に向かって、彼と歩いていきたいと思いました。
そこには伝統野菜を応援してくれる人がいて、理解のある人が待っていてくれました。それで希望がわいてきました。」
河端さんは自己紹介から始められました。「農業を取組んでいく中で、仲間の重要性を感じました。その中で、一番の場所が大阪府4Hクラブです。若手の農業従事者の親睦団体で、ネットワークが広い団体です。教科書では出ていないような技術を教えあって、皆さんを育てる会だと思います。」
さらに各種団体に入り、仲間を作っていかれました。地元での活動も重視されました。
大阪エコ農産物やなにわの伝統野菜(天王寺蕪・毛馬胡瓜など)作りで、最近では、一千万円程度の収穫が出来るようになったそうです。
Written by マロンさん