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学芸員の投稿
Update: 2014年01月21日
織田作之助の世界
16日、キックス(河内長野市立市民交流センター)でオダサク倶楽部代表の井村身恒先生による講座「織田作之助の世界」が行われました。
織田作之助の紹介を兼ねて「オダサクメモリー」という映像が放映されました。大阪に戻って新聞記者となり、南海沿線の北野田に新居を構えたが、妻が亡くなり、富田林の姉のところで生活していました。
その後、NHKテレビニュース、オダサクが愛した大阪の町の「筋と道」という話のビデオが紹介されました。
「法善寺」を舞台にした「夫婦善哉」、蝶子と柳吉の物語です。
上町台地には多くの坂があります。地蔵坂・口縄坂などがあり、特に口縄坂は静かな風景が残り、文学碑もあります。
井村先生は、オダサク風にマント姿で登場されました。服装から合わせられたようです。
「織田作之助は、昭和22年1月10日に東京で亡くなり、今年、生誕100周年を迎えました。オダサクさんとして人気があり、太宰治・坂口安吾と3人で「無頼派」として有名でした。
小説・戯曲・映画と幅広く活動した、33年と76日の生涯でした。戦後、1年半の間に数多くの作品をざっしんに発表しています。1日に100枚の原稿用紙に作品を書いていました。そのときはヒロポンを打っての作業のようでした。
現在残されている作品を、ストーリーだけでなく、表現の仕方、大阪弁の使い方を踏まえて、生誕101年に向けて、もう一度検証して、オダサクの広がりをプロデュースしていきたいと思います」と話されました。
「「座右の銘」を質問されて、準備したのが、戦後の作品にありました。昭和8年、オダサクが20歳のとき、京大での出来事です。京大のキャンパスでは、滝川事件後、左翼運動弾圧が起きて、左から右へ転向が起きました。思想体系に不信を持っていて、「左翼思想より腹を減らしているペンペン信条を信じる」と「腹ペコの思想」を信じるに至りました。」
Written by マロンさん