田原礼幡キリシタン墓碑(たわられいまんきりしたんぼひ)
田原城主の菩提寺である千光寺跡から出土したキリシタン墓碑です。
戦国時代末期の永禄3年(1560)に飯盛城へ入城した三好長慶は、キリスト教の布教を許可してキリシタンの保護を命じます。永禄7年(1564)には、飯盛城で2度にわたり、三箇城主三箇サンチョ(大東市)、池田教正シメアン(後の若江・八尾城主)など70余名の家臣が洗礼を受けました。これを契機として「河内キリシタン」が繁栄していきます。
この墓碑には、十字架の下に『天正九年 辛巳 礼幡 八月七日』と刻まれています。「礼幡」は洗礼名で、「レイマン」と読みます。天正2年(1574)のルイス・フロイスの書簡に「田原の城主がキリシタンに改宗したこと」、天正3年(1575)のルイス・フロイスの書簡に「三箇マンショや結城ジョアンといった河内のキリシタンとともに田原レイマンが織田信長に拝謁した」ことが記されており、その人物が田原城主である「田原礼幡(レイマン)」です。国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最古のもので、文献史料と発掘資料が一致する唯一のものです。
墓碑は四條畷市歴史民俗資料館(http://www.shijonawate-rekishi.jp/)で常設展示しています。
戦国時代末期の永禄3年(1560)に飯盛城へ入城した三好長慶は、キリスト教の布教を許可してキリシタンの保護を命じます。永禄7年(1564)には、飯盛城で2度にわたり、三箇城主三箇サンチョ(大東市)、池田教正シメアン(後の若江・八尾城主)など70余名の家臣が洗礼を受けました。これを契機として「河内キリシタン」が繁栄していきます。
この墓碑には、十字架の下に『天正九年 辛巳 礼幡 八月七日』と刻まれています。「礼幡」は洗礼名で、「レイマン」と読みます。天正2年(1574)のルイス・フロイスの書簡に「田原の城主がキリシタンに改宗したこと」、天正3年(1575)のルイス・フロイスの書簡に「三箇マンショや結城ジョアンといった河内のキリシタンとともに田原レイマンが織田信長に拝謁した」ことが記されており、その人物が田原城主である「田原礼幡(レイマン)」です。国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最古のもので、文献史料と発掘資料が一致する唯一のものです。
墓碑は四條畷市歴史民俗資料館(http://www.shijonawate-rekishi.jp/)で常設展示しています。
ジャンル | 建物・まちなみ |
---|---|
時代 | 中世 |
所在地 | |
交 通 | ≪千光寺跡移築広場≫ 四條畷市大字上田原 JR片町線(学研都市線)四条畷駅下車四條畷市コミュニティバスまたは近鉄線生駒駅下車奈良交通バス田原台センターバス停下車東へ徒歩5分 ≪歴史民俗資料館≫ 四條畷市塚脇町3-7 JR片町線(学研都市線)四条畷駅下車北へ徒歩15分 京阪電車「大和田」駅から京阪バス四条畷駅行きまたは四條畷コミュニティバス塚脇バス停下車徒歩2分 |
問合先 | 072-877-2121(四條畷市スポーツ・文化財振興課) |
URL | https://www.city.shijonawate.lg.jp/site/bunkazai-shiseki/1933.html |
備 考 |
以下のいずれかを選択して検索してください